貧富の差が激しくなっている近未来の日本。AIの技術も進み,主人公の朔也は母子家庭で高校中退,RA(リアルアバター)という依頼主の望む通りに動くという苛刻な仕事に就いている。朔也の母親は自由死を望んでいたが,朔也は反対していた。しかし,事故で母親は死んでしまう。母親がなぜ自由死を望んでいたか知りたく,VF(ヴァーチャル・フィギア)という仮想空間に人を作成する会社に母親のVFを作成してもらう。VFに,いろいろな情報を入力したり学習させたりすることで,より本人に近づくことができ,亡くなった母親を感じることができるのである。このことの是非も一つの読みどころですね。
母親の情報を集める中で,母親と仲が良かった女性の三好と同居することになる。また,ある事件を通して朔也はネット上でアバターデザイナーとして大成したイフィーのもとで働くことになる。
朔也の三好に対する気持ち,イフィーとの関係,母親の愛読書の作家との話などを通して,朔也自身が成長していきます。

僕は生きる。しかし,生が,決して後戻りの出来ない死への過程であるならば,それは,僕は死ぬ,という言明と,一体,どう違うのだろうか?生きることが,ただ,時間をかけて死ぬことの意味であるならば,僕たちには,どうして「生きる」という言葉が必要なのだろうか?

この作品は自由死を通して,人の生と死について考え,死ぬ間際のことについて書いています。死ぬ間際,誰かにいてほしい。その人がいる時に死にたい,自由死を選ぶ一つの理由でもあります。物語には,VFの母親が仮想空間で,ホスピスで働き,そこの人から自由死に立ち会ってほしいと望まれます。ある意味,うらやましいと言えます。

一体,愛する人の記憶は,何のために,その死後も残り続けるのだろう?生きている人ならば,次に相手に会った時に役に立つ。けれども,もう会えない人の記憶は?生きている誰かと,その人について語り合うため? ーそんな目的もなく,ただ,その人がいなくなれば,自動的に,その記憶も消えてしまうという機能が,人間には備わっていないということだけのことなのだろうが。