「葬送」第二部下を読み終えました。
その一瞬は、まるで撃ち落された雉の毛花が、微風に翻って裏返されたかのように、ひっそりと乗り越えられた。
これがショパンに死の瞬間の平野さんの表現。死というものは、声高に言うものではなく、現実の連続の中で、ひきとめるものもなくあっさりと起こってしまうもの。
この「葬送」最後の巻では、死というものを、平野さんは死にゆくショパン、それを見守る人々、特にドラクロワを通して描いている。
まず、ドラクロワに老いについて芸術に関しては次のように語らせる。
ただ、老いだけが未知である。
いかにも人間とは不具合に出来ている。そうして若い頃には大いに濫費した鋭敏な感受性がまさに衰微してゆこうとするその時になって、精神は初めて誤りから遠ざかり、理解力を増し、何事かを確実に計画し、遂行する知性を得ることになる。どうしてそれらの能力を二つ一緒に兼ね備えることが出来ないのであろうか。
偉大な芸術家とは、きっと、まさしく知性が完全に支配する年齢になって猶、若さの特性である感覚の強烈さを何ら損なうことなく保ち続ける人なのだ。知性が経験を食して漸く肥え始める時に、感性がその摩滅に耐え、依然として強靭である人に違いない。
そして、死については。
彼らは今、人の記憶の中でそれぞれの個別の死を死(ママ)んでいる。けれども、何百年と経った後、彼らのことを誰一人として記憶する者がいない時代が訪れた時、彼らの死はこの海のように大きく境界のない死の行方も知れぬ一部分―いや、部分とすら言えぬ或る何かになっているのではあるまいか?
現実的に、少子化を迎えている今、僕らはそのような時代に生きて死んでいくのだろう。。。
そして、ドラクロワはこのように思いながら、死が間近に迫っているショパンに元に駆け付けず、死んでからパリに戻るのである。
彼は、長らく密かに自分の裡に認めてきた他人に対する本質的な無関心のことを考えた。それはエゴイズムの深淵であった。自分は嘗てただ一日でも他人の為に自分の人生の時間を費やしたことがあったのであろうか?
この「葬送」という物語は、僕にとって平野啓一郎という作家について、改めて認識されてくれました。単純なショパンやドラクロワなど、その時代に生きた芸術家を客観的に物語として著述したのではなく、彼らを通して平野さんの思いをしっかり込めた作品だと思います。そして、すごい取材力だなと思います。あとがきでは、平野さんがドラクロワの日記を原文で読んだとか、細かなカレンダーにまとめていったということが書かれています。ひさびさに文学作品という感じでした。
追記で、この本のおかげで、ショパンを聴くようになりました。