退職後、EXILEのDVDを貸してくれた、EXILEファンのパートさんとだけは、唯一連絡を取り合っていました。他に仲の良かった人から
「メール送って来ないで」
と言われた事は言えませんでした。

実は退職前に本を貸してくれ
「退職までに読み終わらないと思います」
と言って借りるのを断ろうとしたのですが
「退職後にゆっくり読んでくれていいから。返すのはいつでもいいし。連絡してくれたら、どっかで会ってお茶でもしよ」
と言ってくれたので、お言葉に甘えました。

そのパートさんは、派遣からパートになったのではなく、パートにならずに退職する人の代わりに入って来たパートさんです。付き合いはたった1年ですが、誰にでも分け隔てなく優しい人でした。

退職後一度本を返すのに会い、お茶をした時に近況報告をしました。

会ったのはその一度きりですが、何度かメールでやり取りはしました。しかし段々疎遠になりました。

私は小学6年で障がい児学級を卒業し、通常級で通っていました。障害者手帳などなく、健常者として生活しています。

ですが人間関係を築くのが苦手で、これまでも様々な職場で孤立しています。しかしここまで嫌われ、仕事を手伝ってもらえない職場はありませんでした。

特別仕事が出来な過ぎて、ミスばかりして迷惑をかけた事はありませんが、地味でおとなしい性格なので後輩にも慕われる事はありませんでした。

分からない事があれば質問をして解決は出来ますが、それ以上人とコミュニケーションを取るのが苦手です。個人的な事を聞かれれば答えますが、私からも相手に質問をするのは苦手です。

もしも私が小学6年で障がい児学級を抜けなければ、中学でも障がい児学級に入れていたのでしょうかはてなマーク高校も障害者支援の高校に入れたのでしょうかはてなマーク

場面緘黙症だったので入っていたのかなと思うので、克服してしまえばもう障がい児学級にいる意味はなく、卒業となるのでしょう。高校も障害者支援の高校には入らないでしょう。

私は小学5年と6年の時にもいじめられ、中学や高校でもいじめられました。短大でも一部の生徒から嫌われました。

もしも障害者として生きていれば、ここまでいじめられる事はなかったのかなはてなマークと考えてしまいます。障害者として生きる道は、場面緘黙症を克服した時点でなくなったと思います。

障害者として生きていれば、もしかしたら結婚出来ていなかったかもしれないと思うと、今は場面緘黙症を克服して良かったと思います。ちなみに私は卒業するにあたり、知能テストを受けて卒業しました。知能が低いと卒業できませんが、私はギリギリ卒業出来るだけの知能レベルがありました。

まだ物心付く前、発達が遅く支援センターに通っていました。ハイハイや歩き出したのが遅く、言葉の発達も遅かったみたいです。その事は両親から聞いた事はなく、小学校高学年か中学生ぐらいの時に、たまたま探し物をしていた時に、母が書いた文集を見つけて読んだ時に知りました。支援センターに通わせている保護者が、子供の事を書いた作文でした。

母の作文に私の事が書いてあり、支援センターに通っていた事、発達が遅いことを知りました。

そこから幼稚園に入園し、場面緘黙症になりました。小学校では障がい児学級に入り、障がい児として生きる私と、卒業して健常者として生きる私。

健常者として生きる人生の方が遥かに長くなったおばさんですが、今でも自分は何者何だろうはてなマークと考える事があります。