先週のNHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国」の放送終了後の紀行で、聚楽第を紹介していましたね。
昨年、10月に聚楽第跡を訪ねていた写真たちが記事にならずに埋もれていたことを思い出し、本日記事にします。
 
「聚楽第(じゅらくてい/じゅらくだいとも)は安土桃山時代に関白豊臣秀吉が京都に建てた政庁です。甥・秀次に関白職とともに譲り渡しました。しかし、秀吉は嫡男秀頼が誕生すると我が子を後継者にした秀吉は秀次の存在が邪魔になり、彼を自害させ、秀次の痕跡を消すためか聚楽第を破却されました。
 聚楽第は歴史や京都に関する書籍等で紹介されることは多く、聚楽第という名前だけご存知の方も多いでしょう。しかし、聚楽第は現存せず、聚楽第の縄張り図や設計図に該当するものは未発見で、聚楽第に関する史料は少なく、具体的なことはほとんどわかりません。
 近年ようやく発掘調査と諸史料に基づき聚楽第の推定復元図が作成されましたが、未だに聚楽第の正確な形がわからない状況です。」(聚楽第 豊臣家の夢の跡
 
さて、その日は↓の地図だけを持ってでかけました。
あまりなじみがないので、現在の地図を持って行かなかったので、苦労しました。
 
イメージ 1
上部の水色の囲みが聚楽第があったとおう場所です。
地図の下の方に、二条城が見えますか?その北に、聚楽第はあったんですね。
 
そして、あまり資料が残っていないようですが、こんな感じだったようです。
 
イメージ 2
                                    『聚楽第図屏風』(三井記念美術館所蔵)部分
 
さて、堀川通りから一条戻り橋から西へ、「聚楽第北の丸北堀越段差」を探しましたが、通りすがりいろんな方にお聞きしたのですが、結局わからず断念。聚楽第 豊臣家の夢の跡によると、マンションの一部にあるそうで、分かるはずなかったんですね。
 
気を取り直して、南を下ったところに発見しました。
「此付近聚楽第跡」の石碑です。大正時代に正親学区の有志の方の寄付で建立されました。2008年3月からは写真のとおり人目がつきやすいに移動しました。
イメージ 3
 
イメージ 4
 
更に南下し、松林寺の近くにこの碑を発見です。
 
イメージ 5
松林寺から西へ、「聚楽城鵲(かささぎ)橋旧跡の碑」を発見。
刻まれた文字は読めませんね。
「聚楽第の堀に架かっていた橋」という伝承がある鵲橋があったそうです。鵲橋は庭園の池にあるような小さな石橋のことです。
地元の方でも、知らない方が多いようです。
イメージ 6
建物もはっきりとした遺構もないので、まさに石碑を探すツアーでしたが、秀吉の権力の象徴のひとつだった聚楽第を妄想しつつ帰途につきました。
 

極めてマニアックな記事ですので、無理にコメントいただくても結構ですよ。(笑)
 
(2010/10/17)