9月18日 吾妻山神社の今、昔 ー1
いにしえが好きで、下記の様な図書・現地を調べたので、記録として残します。
1)吾妻山神社参拝登山(以下、神社と略す)
・2018/10/9 ご神体はしめ縄が施された岩ではなく、この場所から湧き出す硫黄泉だそうです。ただ、山と高原地図(2010版)には、温泉の沢(石のご神体)と記載有る。
2)図書
A) 地形図(6枚) 2万5千図→1974,2012版
5万図→1959,1968,1976,1993版
・2万5千図比較 新 旧
※神社コースは新旧地図で違う。
※神社の標高・・・新地図は1440m、旧地図は1520m、約80mの違いが有る。
※神社登山道は、5万図の4枚共この1974版と同じで有る。
B) 山と高原地図(2冊) 1990(H2),2010(H22)版
今の歩道は、姥明神平~神社の①1本だけになった。
1990年版には、①~⑤の5本の道が有るが、4本の道は消失した。。
・図1 地図比較
C) 東北の山々 (1933(S8)年7月発刊) 吾妻火山 安斎徹著
S5年完成のヤケノママ小屋に泊まっている。登山年月日は記載無く不明だが、ヤケノママ小屋完成、本の発刊日から推察すると、(1931(S6-7)年頃)の登山だろう。
D) 東北の山 (1946(S21)年頃)発刊 安斎徹著
山と渓谷 38号(S11年)~84号(S19年)に『東北の山と渓』タイトルで、41回シリーズで掲載された。この本はそのシリーズを単行本にしたもの。
E) 吾妻・磐梯・五色・沼尻 1931(S6)/12発刊 福島県山岳スキー倶楽部(編者)
◎中吾妻巡り 1931(S6)/8 コース:峠駅~滑川~鐵索終点小屋(薬師森の西下・姥湯分岐)~東大テン~藤十郎~ヤケノママ~神社~中吾妻山~谷地平~硫黄小屋(浄土平)~微温湯~庭坂駅 宮崎喜一(5名)記録 ※詳しい記録で良かった。
イ)鐵索終点小屋泊では蚤(ノミ)の攻撃のため、眠るには仲々の忍耐が必要だった。
ロ)東大テンの頂上からは径らしいものが三つ有る。其の一は西吾妻方面行くものは之は完全で有る。其の二は谷地平方面に行くもの(⑤)、之は中吾妻麓の針葉樹林の中に入って消えている。第三は烏帽子山を通って家形山に行くもので之は完全に進む事が出来る。
ハ)ヤケノママから谷地平に行く径は二つがある。其の一はヤケノママ東岸の瀧の左を上がり中吾妻北麓を廻るもの。其の二は神社を経由するものである。前者は後者よりも距離が少であり且勾配も少なく遙かに楽である。我々は第二のコースをとった。
ニ)神社は建物としてはなく、唯一米(1m)位の花崗岩に『吾妻権現』と刻まれてあり、後方の樹枝には?上の額や幟等が吊るされてあった。
ホ)神社への最も確実な道としては秋元湖方面から来るものである。
◎やけのまま泊 1931(S6)/8 コース:微温湯~経路記載無しだが、神社コースと推定~ヤケノママ(泊)~藤十郎~烏帽子山~家形山~高湯(泊) 宗像久敬著(3名)記録 ※ヤケノママ小屋写真有り。
・吾妻山神社
・吾妻山・・・大正十五年五月一日 ※昔の『吾妻権現』とは刻まれていない。
・裏手から出る温泉
3)中吾妻山の尾根越え・・・図1参照
安斎氏は、其の二の神社コース(②~③)は、荒れていて時間もかかるので、其の一(④)を歩いた。1931年頃。
宮崎氏は、其の二の神社社コースを歩いた。1931/8。
4)GPS
※スマホは新地図表示で、現在の登山道コースで表示される。
※GARMIN(2010購入)は旧地図表示で、軌跡は登山道コースの西側に表示される。
・比較-1
※PCに落として、カシミール地図では旧コースの為、軌跡は一致しない。地理院地図では新・現在の登山道で表示されて一致する。
・比較-2
・神社傍の権現沢・・・昔の神社はこの沢の約80m上に位置する。
・右岸のガレ場
5)ブログ記録
・2017/08/13 #1 昔の登山記録 東北の山→古い登山記録 三体山の古道を辿る (1935(S10)年)越後新道(西山新道)記録 安斎徹著
・2017/08/20 #2 昔の登山記録 本:東北の山々
・2020/12/02 吾妻連峰の古本 東北の山々 安斎徹著 1933(S8)発刊→ヤケノママ小屋のスケッチ有る。
・2021/09/18 今回
・今の藤十郎分岐
・昔のヤケノママ道は藪で自然に還った。
東大テン 中吾妻山
・中吾妻山
6)吾妻山信仰登山のなごり (浄土平ビジターセンター掲示物を引用)
吾妻山は、古くより福島や会津の人々から、神のやどる山としてあがめられていた。福島地方では、平安時代の延喜式名帳に、東屋国・吾屋沼の2神社の名が出ており、水と天候の安定を中心とする農作物の豊作を願う神の山として信仰された。会津地方では、仏の山として尊ばれ、集落や家族の安全を見守る仏の座と考えられ、神仏につかえる修験者(山伏)が神仏の加護と霊験を得るにふさわしい、きびしい修業の場となっていた。平安末期の戦乱で焼打ちや封鎖にあったが、江戸時代に入って再興された。江戸時代の中ごろからは、一般の人も山伏の先達のもとに山開きから一か月の間、信仰登山できるようになり麓には宿坊もできた。しかし、明治の神仏分離令と修験道の廃止で信仰登山はすっかりおとろえてしまった。信仰登山のなごりは、今、地名や石塔・石碑などにわずかに残るのみである。山としては植林地やオオシラビソ帯が多く、落葉広葉樹林が少ないのでイマイチ感はあったがその昔、山中の神社を修験者が駆け巡り、つい数十年前までは急峻な渓に森林鉄道もあった。そんな昔に思いをめぐらしながらの歩きも楽しいものだ。
7)考察
昔は吾妻権現(今の中吾妻西側にある吾妻山神社)信仰が盛んだった。上の解説から明治時代になってから徐々におとろえていった様だ。
※昔の神社(1520m)には温泉は出ていたのだろうか?。記録には温泉の記載は無い。
神社名刻印の花崗岩・・・昔は『吾妻権現』』、現在は『吾妻山』で刻印文字が違う。昔の神社跡はどうなっているのだろう?。
※今の神社コースは昔と違うがいつの時代か、勾配のゆるい西側につけかえされたのだろうか。もしかして今の権現沢脇で温泉を発見して、新コースを伐開して、そこの岩と温泉を『ご神体』としたのだろうか。 例:湯殿山(聞く・見る・話すべからず)。
※出来たらその辺の歴史書を読みたいが叶わぬ事かな。
※谷地平はまだ行った事が無く、小屋の傍らに安部(安倍)貞任の墓石があり、見たいものだ。小屋位置が昔と変わっていれば無理だろう。
※この歴史道を毎年自主的?に整備してくれているグループに感謝して、コロナが解消されたら微力の私も参加したい。
※吾妻温泉→大平温泉、青木小屋→東海大緑樹山荘、大平温泉手前の登山口下に旧温泉宿。
★今回も未解決案件となったが・・・歴史だもの、ロマンが有ってそれも良いかも。
最後に、歴史浅学の私故に解析・説明不足をご容赦下さい。
謎多いまま、9/20日ようやく完了した。