もう学校を辞めたい。でも、働きたくもない。もう動くことすらいやだ。ただゴロゴロしたまま、ボタンひとつでなんでも出来たらいいのに。

この僕の呟きがすべての始まりだった。

じゃあ、作ってみたら、そういう機械?と母は言った。皮肉や嫌味のこもった言い方ではなく、水で溶くジュースの素を手にこれ飲みたいと言う子供に、じゃあ、作ったら?と言うような自然な流れだ。
今で言うところのニートになろうとしてた息子を頭ごなしに叱ったりせず、穏やかに淡々と話をした。それは説教じみているわけでもなく、でもそれでいて逆らえない何かがあった。

そのうちに僕は、本当に学校に行くのをやめて、家で機械をいじったり、計算したり、実験したりする生活をはじめた。そんな機械は、未来のネコ型ロボットのおなかのポケットからしか出てこないと冷静に思っていたが、元からこういうことは嫌いではないから、すぐに夢中になった。
学校を休む僕に、母は何も言わなかった。ただ、実験や研究に行き詰まると、母なりの、こういう本を読んでみたら?とか、教育テレビでそういう教養講座があるような?とか、そういうことは誰々先生が詳しいかも?とか、近からず遠からずなコメントを寄せてきた。

僕は独学での研究を楽しんだけれど、やはり限界があった。
何をするにもベーシックなところを解っていないと、追々つまづく。そのことは、高度なプラモデルにいきなり挑戦した幼き日にすでに学んでいる。
学校の先生に教えを請う必要性と重要性に直面した僕は、学校を辞めなかったばかりか、再びきちんと通うようになった。有名な数学の先生がいたし、物理や化学の先生は、世界的な発見をした研究室出身だったので、僕は様々な知識を得ることが出来た。

僕はいやいや学校に行っているときより、みるみると成績が上がった。今後の研究課題も見つけて、それにあわせた進学も希望通りにできた。

結局、いや、やはり、最初に開発製作しようとしていたなまけもののマシンは完成しなかったが(作らなかったと言ってもいいが)、僕は発明家になった。
構想段階で、そんな馬鹿なと言われるような奇想天外なものも、しっかり身に着けた基本知識を応用して研究を重ねることで形になる。

そして、僕を開眼させた母は、高齢になった今も、

 

「どうだい?まだ途中なんだけど」
僕はこの書きかけの草稿を近所の大学生に読んでもらった。某文化雑誌からの寄稿依頼を断りきれずに受け、なんとか試行錯誤したがすっかり行き詰まってしまったからだ。
彼は、大学で文学を学んでおり、自分でも作品を書き文芸雑誌に投稿しては時々掲載されている。時々僕の研究所に来ては、作品を書くに当たって必要なのだろう、科学や物理の質問をしたり、実験などを体験していく。
「ねぇ、どう?…変かな?」
うーん、と唸りながら読み返している彼を見て、今日は僕が生徒になる番だなと姿勢を正した。