1853年7月8日(嘉永6年6月3日) -  マシュー・ペリー率いるアメリカ海軍所属の東インド艦隊艦船(黒船)4隻が、江戸湾浦賀湾に来航した日になります。


黒船来航とは、嘉永6年(1853年)に、代将マシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本に来航した事件。
艦隊は江戸湾入り口の浦賀(神奈川県横須賀市浦賀)沖に停泊し、一部は測量と称して江戸湾奥深くまで侵入した。
結果、幕府はペリー一行の久里浜への上陸を認め、そこでアメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡され、翌年の日米和親条約締結に至った。
日本ではおもに、この事件から明治維新における大政奉還までを「幕末」と呼んでいる。

産業革命を迎えた西ヨーロッパ各国は、大量生産された工業品の輸出拡大の必要性から、インドを中心に東南アジアと中国大陸の清への市場拡大を急いでいたが、インドや東南アジアに拠点を持たないアメリカ合衆国は出遅れていた。

当時の人口は、アメリカ合衆国が1833年に約1,416万人、清が約4億人、日本が1834年に約2,760万人であった。

アメリカは1833年にシャムとマスカットとの条約を締結することにようやく成功した。

1835年には日本と清との条約締結のために特使を派遣することとし、このときに東インド艦隊が設立された。
この試みは成功しなかったが、アヘン戦争後の1842年に清との間に望厦条約を締結し、清国市場へ進出することとなる。

この条約の批准のために東インド艦隊司令官ジェームズ・ビドルが清に派遣されるが、ビドルは日本との条約交渉の任務もおびていた。このため、1846年に浦賀に来航するが、条約を結ぶことはできなかった。

産業革命によって大量の油が使用され、鯨の脂身から鯨油の抽出を船上で行っていたため、大量の薪・水が必要であり、捕鯨船の長期航海用の食料も含め、太平洋での補給拠点が求められていた。

加えて難破船の問題もあった。
漂流民の保護は当時のアメリカ海軍の任務のひとつであり、1849年にはジェームス・グリンが難破した米国捕鯨船乗組員を受け取るために長崎に来航している。
その費用の観点からも、太平洋に面する日本と条約を締結することは有利であった。


アメリカは1846年 - 1848年の米墨戦争でカリフォルニアを獲得した。
これによりアメリカは太平洋国家となり、巨大市場である清との貿易開拓が国家目標となった。
アメリカ西海岸から中国に至る最短航路は、西海岸から北上し、アリューシャン列島・千島列島沿いに南下、津軽海峡と対馬海峡を通過して上海付近に至るものである。

このため、津軽海峡に面した松前に補給拠点をおくことが望まれた。
さらに、米墨戦争での勝利により、それまで主力艦隊とされていたメキシコ湾艦隊の必要性が低下し、海軍は組織規模維持のため東インド艦隊の役割を拡大する必要が生じた。


サスケハナ(USS Susquehanna)は、アメリカ合衆国海軍のフリゲート艦。
黒船来航時、旗艦としてマシュー・ペリー提督が搭乗していたことで有名。
船名は、主にペンシルベニア州を流れるサスケハナ川から取られた。サスケハナは、アメリカ原住民の言葉で「広く深い川」を意味する。
初代艦長であるジョン・オーリック大佐の指揮の下、1851年1月からの慣熟訓練の終了後、6月8日にサスケハナは東インド艦隊の旗艦となるべく極東に向かって出発した。
オーリックには日本を訪問し、外交関係を結ぶ任務も与えられていた。
しかし、オーリックはサスケハナの艦長インマン海軍大佐と問題を起したため、翌年広東に到着した時点で更迭された。





代わりにマシュー・ペリー代将がミシシッピで極東に向かい、5月4日、上海で合流し、サスケハナを旗艦とした。
5月17日にサスケハナはその僚艦3隻と共に上海を出航。
5月26日に琉球に到着。
6月14日から6月18日にかけて小笠原諸島父島周辺で測量等を行った。
再び琉球に戻り、7月2日に出航。
1853年7月8日(嘉永6年6月3日)に浦賀に入港した。

幕府に対しフィルモア大統領の親書を手渡した後、米国艦隊は7月17日に日本を離れ琉球に向かった。

1854年2月13日(嘉永7年1月16日)、サスケハナを旗艦とする7隻の艦隊は条約締結を求め浦賀に再訪したが6基の砲台場(忍藩が駐屯していた三番台場がお台場公園として現存する)の大砲を警戒して後退。
3月31日(嘉永7年3月3日)に神奈川で日米和親条約が調印された。

艦隊は6月25日(嘉永7年6月1日)に下田を去り、帰路に立ち寄った琉球王国とも正式に通商条約を締結させた。

サスケハナはその後中国水域で活動後、インド洋、喜望峰を経て1855年3月10日にフィラデルフィアに戻り、3月15日に任務を解かれた。