1973年(昭和48年) - 長谷川 敏が考案したボードゲームの『オセロ』がツクダから発売された日になります。


オセロのルーツは、1945年( 昭和20年)の夏に茨城県水戸市で長谷川が考案した簡易囲碁ゲーム挟み碁である。

当時の長谷川と同級生たちは相手の石を囲んだら取れるという囲碁のルールがよく分からなかった。

そこで、長谷川の発案により、相手の石を挟んだら取れるという簡易ルールで遊んでいた。
その後、石を取るのではなく、相手の石を挟んだら自分の石と置き換えるというルールに改良し、現在のオセロに近いものとなった。

さらに、自分の石と置き換える作業を簡単にするため、碁石ではなく表裏を黒白に塗り分けた紙の石を裏返すというアイデアに至った。

挟み碁には「挟んだら裏返す」という基本原理以外に定まったルールはなかった。
そのときどきで様々なルールを採用していた。

長谷川は、中学・高校・大学で級友とこのゲームを楽しんでいたが、大学卒業によって遊ぶ機会がなくなり、挟み碁は姿を消すことになった。

1964年(昭和39年)当時、東京都で中外製薬の営業担当として仕事をしていた長谷川は、同僚の女子社員たちから何かゲームを教えて欲しいと頼まれた。

長谷川は囲碁・将棋ともに五段の腕前を誇り、最初はこれらのゲームを教えたが、難しすぎるとのことで上手く行かなかった。

そんな折に少年時代の記憶にあった挟み碁のことを思い出した。
そこで、自宅で妻と家庭の牛乳瓶の紙蓋を集めて石を自作し、女子社員たちにルールを教えたところ、彼女らが昼休みにこのゲームを楽しむようになった。

さらに、営業先の病院でもこのゲームを紹介したところ、入院中の患者の時間潰しやリハビリテーションに使えるとのことで好評を博した。

長谷川が担当していたある病院の医局長からは
「このゲームは社会復帰を目指す患者のリハビリに適し華がある」
と太鼓判を押された。

手応えを感じた長谷川は、仲間たちとともに実験・研究を繰り返し、このゲームをさらに改良することにした。

当初、長谷川は自作の8×9の盤を使っていた。

1970年( 昭和45年)10月に西ドイツの製薬会社メルクからチェスセットが日本の薬品関係者に贈られると、8×8のチェスボードを採用して、チェスボードに合った駒を使用するようになった。

当初、長谷川は間接挟みでも石を返すという現在よりも複雑なルールを採用していた。
しかし、直接挟みのみに限定した簡明なルールに変更した。

これにより、1970年末頃、現在のオセロと同様のゲームが完成した。

完成したゲームには、当初は黒と白の石を上野動物園のジャイアントパンダに見立てて
「ランラン・カンカン」
という名前を検討していた。
長谷川の父親で旧制水戸高等学校の英国文学教授であった長谷川四郎の発案で「オセロ」に変更された。

これは、英国文学の代表作であるシェイクスピアの戯曲『オセロ』に由来する。

緑の平原が広がるイギリスを舞台にして、黒人の将軍オセロと白人の妻デズデモーナを中心に敵味方がめまぐるしく寝返るという戯曲のストーリーに、緑の盤面上で黒白の石が裏返って形勢が変わっていくゲーム性をなぞらえたものである。

1972年10月、長谷川が玩具メーカーのツクダにオセロを持ち込んだところ、これが認められ、商品化が決まった。

商品化に先立ち、
翌年1月には日本オセロ連盟が設立された。
同年4月7日には第1回全日本オセロ選手権大会が開催された。

同年4月25日に「オフィシャル・オセロ」が発売された。これは、現在も公式大会に使用されている。