9月18日、日清食品がカップヌードル(cup noodles)を、昭和46年(1971)に発売した日になります。


 日清食品は、カップヌードルを非常災害用として自社工場や物流倉庫にある程度多めに確保し、賞味期限の近いものから出荷し、同時に新しいものを補充していく方法で常時100万食分のカップめんを在庫していて、過去の大災害時にも随時提供している。

しかし、災害直後の火気使用はガス漏れによる火災事故を起こす危険も高く、集団避難生活では火気が使えない事が多いためお湯の入手が困難な場合が多く調理が難しいケースもある。
警視庁警備部災害対策課‏によると水でも15分待てば食べられると紹介している。https://x.com/MPD_bousai?t=Dfo1IJb_0kPbdd8WPxxNLQ&s=09


日清食品の創業者である安藤百福は、即席麺の商談で訪問したアメリカの担当者が「チキンラーメン」を小さく割ってカップに入れ、お湯を注いで食べた。 


ここから「容器入りインスタントラーメン」の構想が膨らみ、「カップヌードル」が誕生した。


大口顧客第一号は、「自衛隊」で、隊員の演習中の食糧にと購入してくれた。
お湯さえあればどこででも食べられるカップヌードルは、演習場で給湯車から給湯され自衛隊員に配られた。 


発売翌年の1972年(昭和47年)2月に発生した『あさま山荘事件』では、カップヌードルを食べる機動隊員の様子が日本全国に生放送され、視聴者の注目を集めた。
事件当時の現場は、摂氏マイナス15度前後の寒さで、警察官に配給された弁当も凍ってしまったため、熱湯を注ぐだけですぐに食べられる当製品が非常食として導入されたものであった。

『あさま山荘事件の現場でカップヌードルを食べる機動隊員 』


9月11日

昭和20年(1945)9月11日に有色人種の主権のため、そして国家防衛のために、米英と戦った英雄が戦犯の汚名を着せられ逮捕された日になります。

護送中のA級戦犯指名された方々



ポツダム宣言に基づき、極東国際軍事裁判所条例により定義された戦争犯罪に関し、極東国際軍事裁判(東京裁判)により有罪判決を受けた者をA級戦犯と称して逮捕命令がだされました。

連合国軍最高司令官から終戦連絡中央事務局を通じて日本政府に通達され、本人には連合国軍の中でも最初に東京に駐留を開始したアメリカ軍の第8憲兵司令部への出頭命令という形で伝達され、100名をゆうに超える逮捕者を出しました。

第一次戦犯指名
1945年9月11日逮捕命令
東條英機、東郷茂徳、嶋田繁太郎、賀屋興宣、鈴木貞一、岸信介、岩村通世、小泉親彦、橋田邦彦、井野碩哉、本間雅晴、黒田重徳、村田省蔵、寺島健、長浜彰、太田清一、上田良武、鈴木薫二、徳田久吉、飛田時雄、長内茂、三浦宗一、竹内寛、ジェームズ・W・佐々木
1945年9月21日逮捕命令
土肥原賢二、阿部信行
1945年10月22日逮捕命令
安倍源基

第二次戦犯指名
1945年11月19日逮捕命令
荒木貞夫、小磯国昭、松岡洋右、松井石根、南次郎、白鳥敏夫
本庄繁、鹿子木員信、久原房之助、葛生能久、真崎甚三郎

第三次戦犯指名
1945年12月2日逮捕命令
畑俊六、平沼騏一郎、広田弘毅、星野直樹、大川周明、佐藤賢了、鮎川義介、天羽英二、安藤紀三郎、青木一男、有馬頼寧、藤原銀次郎、古野伊之助、郷古潔、後藤文夫、秦彦三郎、本多熊太郎、井田磐楠、池田成彬、池崎忠孝、石田乙五郎、石原広一郎、上砂勝七、河辺正三、菊池武夫、木下栄市、小林順一郎、小林躋造、児玉誉士夫、松阪広政、水野錬太郎、牟田口廉也、長友次男、中島知久平、中村明人、梨本守正、西尾寿造、納見敏郎、岡部長景、大倉邦彦、大野広一、太田耕造、太田正孝、桜井兵五郎、笹川良一、下村宏、進藤一馬、塩野季彦、四王天延孝、正力松太郎、多田駿、高橋三吉、高地茂都、谷正之、徳富猪一郎、豊田副武、津田信吾、後宮淳、横山雄偉

第四次戦犯指名
1945年12月6日逮捕命令
木戸幸一、大島浩、近衛文麿、酒井忠正、大河内正敏、緒方竹虎、大達茂雄、伍堂卓雄、須磨弥吉郎
1946年3月16日逮捕命令
永野修身
1946年4月7日逮捕命令
岡敬純
1946年4月29日逮捕命令
梅津美治郎、重光葵

板垣征四郎、木村兵太郎、武藤章は外地で逮捕。
橋本欣五郎は国内で単独で逮捕。

1953年8月3日、「戦犯」とされた者を赦免し、名誉を回復させる「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」が社会党を含めて圧倒的多数で可決された。

A級戦犯として有罪判決を受け禁固七年とされた重光葵は恩赦後に、衆議院議員に3回当選し、1954年に鳩山内閣の副総理・外務大臣となり、日ソ国交回復交渉や国連加盟交渉に取り組み、1956年の国際連合総会で日本の国連加盟が全加盟国の賛成で承認され、重光の受諾演説に対して加盟国代表団から拍手で迎えられ、公職引退後に勲一等を授与された。

終身刑を受けた賀屋興宣は恩赦後に、衆議院議員に5回当選し、池田内閣の法務大臣を務め、公職から引退後に叙勲を打診されたが辞退した(日本は有罪確定者には叙勲資格が無いため、重光と賀屋に対するこの叙勲・叙勲打診は彼らが前科者扱いされていないことを意味する)。

A級戦犯被疑者だった岸信介は公職追放解除後に、衆議院議員に9回当選し、石橋内閣の外務大臣を務め、1957年2月25日~1960年7月19日まで内閣総理大臣を務め、国民皆保険・国民皆年金制度の制定や、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約の改定を実施し、その葬儀は内閣・自由民主党合同葬となっている。

これらの事から「日本政府は公式に戦犯の名誉回復がされたとは表明していないが、以上の事実により実質上は名誉回復されている」とみている。
また、「戦犯は国際法によって裁かれたもので、国内法上の犯罪者には該当しないため、名誉が損なわれていないので、回復する必要がないとされ、名誉回復の必要性自体が存在しない」という意見もある。


 

 

帝都大震災

火災旋風の描写

「本所石原方面大旋風之真景」帝都大震災画報



大正12年(1923)
9月1日
①11:58 M8.0±0.1 南関東。
②12:01 M7.2 東京湾北部。
③12:03 M7.3 神奈川県・山梨県・静岡県県境。
などを震源として発生し、関東地方に甚大な被害をもたらした『三つ子地震』である。


約10万5000人の死者・行方不明者のうち約3万8000人は東京市本所区(現・東京都墨田区)にあった旧陸軍被服廠(ひふくしょう)跡の約6ha(約2万坪)の狭い範囲で、「火災旋風」という現象により焼死している。


関東大震災に因み、1960年(昭和35年)6月17日の閣議了解(第2次岸改造内閣:岸信介首相)により「防災の日」が、制定された。 

また、例年8月31日 - 9月1日付近は、台風の襲来が多いとされる二百十日にあたり、「災害への備えを怠らないように」との戒めも込められている。


http://www.youtube.com/playlist?list=PLduSlmYzyZc8ZyDM4wBqtRjaaru9IfPxd