◆川口市祖父母殺害事件とは
 2014年3月、埼玉県川口市のアパートで、高齢の夫婦が殺害されているのが見つかった。

 新聞がたまっているのを不審に思った家主からの連絡で、親族がアパートを訪れて2人の遺体を発見した。遺体には段ボールがかけられていた。
 

事件現場のアパート

                事件現場となったアパート(埼玉県川口市)


 警察の捜査の結果、当時17歳だった少年(孫)が祖父母を殺害し、キャッシュカードを奪った事件であったことがわかった。
 少年は強盗殺人の罪で起訴され、懲役15年の判決を受け現在、服役中である。


 当初は”非行少年が起こした凶悪事件”の一つとして小さく報道されたが、その後、裁判を通じてこの事件の背景には少年の母親による壮絶な虐待があったことが明らかになる。
 犯行当日、少年は、母親から「祖父母を殺してでも金を持って来い」と命じられて犯行に及んでいたのである。

 

◆少年の生い立ち

 

 少年は1996年に埼玉県で生まれ、最初は両親と3人で暮らしていた。

 ところが少年が10歳の時に両親が離婚。その後、母親が再婚し、義父と暮らすようになったが、その暮らしは、普通の生活とはまったくかけ離れたものだった。

 母親と義父は、旅館での住み込みの仕事を見つけて静岡県西伊豆町に引っ越し、この町で住民登録をした。しかし、しばらくして両親とも働かなくなり、一家は住民票を西伊豆町に残したまま埼玉県に戻ってくる。転居届などの手続きはされなかったため、少年はこの時点でいわゆる「居所不明児童」となった。

 一家は、さいたま市のモーテルで生活したり、お金がなくなると、その敷地内にテントを張って暮らしたりするという異常さだった。生活費が足りなくなると、母親は、少年に親戚のところに行かせ、金を無心させていた。少年は行政の目の届かない「居所不明児童」で、住民登録がないため当然学校にも行くことができなかった。

 そんな中、妹が生まれた。一家は、生後数か月の妹を連れながらも、やはりホテル泊や野宿を繰り返していった。

 途中、神奈川県横浜市で、生活保護を受給し、簡易宿泊所に住居を持っていたという時期もあったが、それも長くは続かなかった。この時期、少年はフリースクールに通うことができたが、母親がそうした周囲からの干渉を嫌い、簡易宿泊所を出たため、フリースクールも辞めざるを得なかった。

 その後は義父の働く会社の寮で暮らし始めたが、義父が失踪。少年自身がその塗装会社で働くようになった。

 結局、いくら働いても母親の浪費によってお金はなくなり、給料の前借りも断られるようになったため、一家3人の生活はさらに困窮していく。

 追い詰められた少年は、母親の命じるままに祖父母殺害事件を起こしてしまった。

 

◆事件当日の出来事

 

 事件当日、少年は1人で祖父母の家を訪れた。母親と妹は近くの児童公園で待っていた。

 いきなり借金を申し込むと家に入れてもらえないのではないかと思い、「建設会社への就職が決まった」と嘘をついて、アパートの中へ入れてもらったという。

 最初、少年は、祖父母を殺害をしないで金を得る方法を模索した。

 祖父母には「就職にあたって引っ越し費用が必要だ」と嘘をつき、金をかりようと持ち掛けた。ところが祖父は厳しい態度で「金は貸さない、あの女(母親)にもそう伝えておけ」と拒絶した。

 この時点で、少年は”家族を食わせていくためには殺すしかない”と犯行を決意したという。

 最初に祖母をキッチンに呼び出し、延長コードで首を絞め、包丁で刺し殺害。次に祖父を背後から包丁で刺し、殺害した。
 祖父母を殺害してしまったことで混乱した少年は、金銭を盗らずにそのまま近くの児童公園で待つ母親と妹のところに戻ってきてしまった。しかし母親から金を持ってきてないことを問い詰められ、もう一度事件現場に戻り、キャッシュカードやカメラなど金目のものを持ち出してきたということである。現金は近くのショッピングセンターのATMで下ろした。

 

事件現場近くの児童公園(事件当日母親と妹はここで少年を待った)

 

◆逮捕以降の裁判の流れ
 

 ATMの防犯カメラの映像から、少年の犯行はすぐに発覚。2014年4月29日、少年は別件の窃盗容疑で逮捕された。

 そしてその後の取り調べで祖父母殺害について自供し、5月20日、強盗殺人容疑で再逮捕された。2014年4月29日には母親も逮捕された。


 裁判はまず母親から始まった。

 2014年6月24日の1審の初公判で、母親は「母親から殺害を指示された」という少年の供述を否定したが、事件前に彼を追い詰めるような発言をしたことは認めた。2014年9月19日、母親には、懲役4年6か月の判決が言い渡された。控訴しなかったため判決はそのまま確定した。

 その後、少年の裁判が始まった。

 2014年12月15日、1審・さいたま地裁で裁判員裁判による初公判が開かれた。少年は犯行を認めており、争点となったのは、①母親からの殺害指示があったかどうか、②大人と同じように刑事処分をすべきか、それとも保護観察処分とすべきか、という2つの点だった。

 同年12月25日、1審判決が言い渡された。懲役15年。

 裁判で争点となっていた殺害指示については、母の言葉は借金を確実にさせるための追い込みの言葉に過ぎず、具体的な指示はしていないという判断だった。弁護側は不服として控訴した。

 2015年6月17日、2審・東京高裁での初公判が開かれた。控訴審でも母親による殺害指示があったかどうかが争点となった。

 同年9月4日に2審判決。判決は母親の証言の信用性に強い疑念が残るなどとして、少年側の主張を認め「母親からの殺害指示はあった」と判断した。ただし量刑については、懲役15年と、1審判決を見直さなかった。

 少年は「判決内容に不満はないが、前例を作って、自分と同じような境遇の子供たちがいたら、少しでも生きやすくしたい。」と上告を決めた。
 2016年6月8日、上告棄却の決定。これにより懲役15年とした1、2審判決が確定。少年は東京拘置所から刑務所に移送された。

 

◆この事件をていねいに取材した記者がいた

 

 この事件が、よくある少年事件とはまったく違うことを、毎日新聞さいたま支局の山寺香記者は気づいた。そしてすべての公判を傍聴、これまで少年に関わってきた大人たちにもていねいに取材し、その犯行までの極めて壮絶な状況を連載記事として報じた。

 さらにこの少年に対して社会からの救いの手がまったく届かなかった問題に焦点を当て、さらにこの少年の将来の社会復帰に向けて支援の輪が広がっている現象も取材し、一冊の本にまとめた。

 

毎日新聞山寺香記者が書いた本(ポプラ社)

 

 この本は、この少年のような「居所不明児童」が他にもいるのではないか、存在しているのに、あたかも存在しないかのように取り扱われ、福祉の手から漏れている子どもがいるのではないかという警鐘を世の中に乱打するものとなっている。

 山寺記者からのメッセージは、音楽家の岩室晶子さんとシンガーソングライターの松井亮太さんにも届いた。

 少年は裁判の中で、強盗殺人事件を犯す前日、JR北千住駅前の大型ビジョンに、松井亮太さんが作詞作曲した曲「あかり」が流れているのを聴いたこと、事件後に逃走先のホテルで検索をしてもう一度この曲を聴いたことを明らかにしており、「もっと早くこの唄に出会いたかった」と述べた。

 「あかり」は内閣府の「いのちを支える(自殺防止)プロジェクト」のキャンペーンソングで、当時日本中で流されていた。

 

◆広がる支援の輪

 

 2019年7月14日、横浜にあるシェアリーカフェで、コンサートが開かれた。

 刑務所内にいる少年の詩に、シンガーソングライターの松井亮太さんが曲をつけた『存在証明』という新曲の完成披露コンサートである。

 ステージには同じく少年の支援者である音楽家の岩室晶子さんと松井亮太さん、そして山寺香記者が上がり、この曲ができるまでの経緯を語った。

 松井さんは、山寺さんから、少年の事件を起こすまでの背景を聞き、手紙で獄中の少年とやりとりをする中で、この曲を作ることを思いついたのだという。

 いままでは人を信じる事ができなかった彼が、これから刑期を終えて社会復帰するのにむけて、一緒に曲を作りたい。そして制作の大変さも含め、曲が出来上がった時の喜びを共有することで、少しでも少年のこの先の力になれたらと考えたという。

 松井さんと岩室さんは、少年が服役している刑務所で慰問コンサートを開いたというエピソードも紹介した。

 そして新曲『存在証明』が披露された。
 この日は、彼を支援することに共感した多くの人が集まり、新聞やテレビの取材も入った。コンサートは観客の心に残る有意義な時間となった。
                                 

        

          トークイベントと新曲披露コンサート(2019年7月14日)


             
 

         

            毎日新聞山寺香記者の取材を受ける隈本ゼミの学生

 

◆居所不明児童と児童相談所


 少年がまさにそうだった「居所不明児童」とは、何だろうか。

 生まれた時点での住民登録はあるが、乳幼児期の健診や義務教育を受けたという記録がなく、行政や福祉の立場から連絡や接触が図れないでいる子どものことである。

 自治体の担当者もその安否を把握できない。「所在不明児童」とも呼ばれている。

 児童相談所は、なぜ彼のことを把握できなかったのか。

 児童相談所は、子供に関する問題を解決するための専門の相談機関である。児童福祉士(ソーシャルワーカー)、児童心理士、医師といった専門スタッフがおり、保護者への助言や継続的な相談を行うほか、虐待などが疑われる時には子供を一時保護して安全をはかることもある。
 少年は、一時期、地域の児童相談所からの支援を受けていた時期もあったが、母親が届け出なしに転居を繰り返したりしたため、転居先の児童相談所にその情報が伝えられて支援が継続されることはなかった。

 全国の児童相談所には、問題を抱えた子供のデータを共有するためのシステムがなく、(資料をファックスで送るだけというのが現実であった)こうしたことが、多くの虐待事件が防止できない問題点として指摘されている。

 

◆ゼミで事件の背景を取材して

 

 ゼミ生たちの感想を紹介します。

 

▲事件の背景を調べる前と調べた後で、この少年に対する印象が大きく変わった。初めて事件現場を訪れた時、実の祖父母を殺害したという事実が衝撃的で、少年に対する恐怖を感じた。しかし、山寺記者の本を読み進めていくうちに、少年の性格や家庭環境を知り、少年だけが悪いわけではないのだとわかった。事件のことをよく知らない人にとっては“母親に命じられた少年が祖父母を殺害した”という受け止めになるのかもしれないが、背景を調べてきた私達にとってこの事件は、そんな単純なものではないことがわかった。すべての犯罪には必ず何かしらの背景があり、ニュースで報じられるのを見ただけでは分からない本質が隠れているというのを学ぶことができた。そしてその中には、社会が対処していかなければならない問題が含まれている場合も多い。今回の事件で言えば、貧困や虐待、居所不明児童の存在などである。まずは“知る”ということが大事であり、事件の背景を取材することはとても意義のあることだと感じた。
 

▲少年の事件を担当した裁判長が「事件を起こす前にだれか手を差し伸べられなかったのか」と述べたという。確かに少年が事件を起こすのは、家庭環境の問題が大きかった。だが私は人間として超えてはいけない線というものを誰もが持っているはずだと思う。それを超えてしまった少年に、誰かが手を貸せば犯罪をしなかったと簡単に言ってはいけないのではないか。酷なようだが、私は犯罪を犯す人は犯すし、犯さない人は犯さないと思っているし、今回、この事件を取材してもその考えかたが変わることはなかった。しかし、少年犯罪を起こす人が、どうしようもない人間ばかりでもないことも分かった。今回の取材がなければそのことを知ることはできなかった。取材をしてよかったと思う。

▲少年が獄中で作った曲『存在証明』の歌詞をみると「ほんのわずかでも、君が少しでも、私を望んでくれるなら、笑ってありがとうと言ってくれるなら、何度、何千度、何万度でも君の為に言葉を紡がせてください」とある。この歌詞の内容は、自分がこれまで生きてきた中で誰かにしてほしかったことなのかなと思ったし、そうしてくれる誰かがいなかったことが悲しいと感じた。厳しい試練を受けて、それでも誰かのためにこれから何かをしたいと思える少年は強くて優しい人なんだと思う。

▲「誰もボクを見ていない」で紹介されている少年の過去は壮絶でとても悲惨なものだった。ゼミの時間が来るたびにこの本を読む。その時間が私は苦痛でしかなかった。しかし、良く考えてみると私たちは本を読んでいるだけであって本当に壮絶で悲惨な思いをしているのは少年だとある日気づかされた。事件現場にも行き、著者である山寺さんにもお会いして話を聞くことができた。一つの事件を調べたり、実際に現場に行ったりする事を、これまでしたことがなったので、ゼミは大変貴重な体験になったし、一つの事件を追う大変さも少しはわかった気がした。

▲学ぶことが非常に多かった取材だった。少年がおかれていた環境が原因で起きたこの事件。親戚や施設の人が時々手を差し伸べることはあったものの、虐待する親に依存してしまった少年はその環境から逃れることができず、結果として殺人の罪を犯してしまった。この取材を通して、親が持っている権利や影響力がどれほど大きいかということと、その親を止めることのできなかった社会システムの弱さを痛感した。その結果、虐待に関するニュースは後を絶たず、命を奪われてしまった子供もいるのが現実だ。この少年が経験してしまった絶望や依存の深刻さ、そしてそれがどういう結果をもたらすのかをしっかりと学ぶことができた。

▲毎日新聞の山寺記者は、少年の裁判担当になってから拘置所にいる少年と50~60通ほどは手紙のやり取りをしたとおっしゃっていた。事件に衝撃を受け「この事件はしっかりと記事として記録を残しておかなければ」という山寺記者の強い意志や取材力がなければ、よくある少年事件の一つとして見過ごされていたかもしれない。「存在証明」という曲は、少年自身について述べられていて、聴く人に語り掛けるフレーズや励ましの言葉を贈る内容にもなっていて、とても詩を見て優しい心の持ち主だなという印象を受けた。山寺記者にも実際にお会いしお話を聞くことができ、また、おそらくこの取材をしなければ一生経験することがなかっただろう、刑務所内の少年の詩に触れるという体験をすることができ本当に充実したゼミだった。