いまの日本人は歴史を知らなすぎる 
悲劇を繰り返さないために伝えなければ
 
「福田村事件―関東大震災 知られざる悲劇」著者、辻野弥生さんインタビュー(その2)

「自衛のため」と主張した加害者たち
――当事者たちの中には、事件後も自分たちは自警団として地域のため、お国のためにやったんだという感じで胸を張っていた人が結構いたらしいですね。
辻野さん:ええ。この福田村事件の裁判の時も、自分たちは悪くないという
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意識が強かったらしいですからね。そもそも一応裁判はしましたっていう結構おざなりの裁判だったそうです。まあ時代もめちゃくちゃでしたね。


――そうですね。石井先生のお話では、みんなでやったんだから、自分たちが代表で警察に行ってくるという感じだったらしいんですよね。
辻野さん:そうですね。確かに時代も時代だったし、もし私が同じ時代同じ場所にいたら一緒にやらなかったかもしれないけれど、もしかしたらやっちゃったかもしれないですね。時代背景を考えると、福田村事件を起こした人たちが飛び抜けて残酷な人たちだったとは言い切れない気もするんですよね。

――特にその数年前から、朝鮮の人たちの反日運動が結構激しかったから、それで日本政府として警戒していたという影響もあるでしょうね。
辻野さん:そうですね。意識の高い朝鮮の人たちというのは当時の日本政府にとってすごく都合が悪くて、震災の時にこういう人たちが動き出すととんでもないことになるって恐れはすごくあったと思います。

――また、当時のメディア(新聞・雑誌)も、それまで朝鮮での暴動とか反日運動とかは報道してましたから、当時のメディアに接している国民も漠然たる不安感というものはあったと思いますよね。
辻野さん:そうですよね。当時のメディアも今ほど発達もしてなければ情報公開もない時代ですのでね。みんながデマを信じちゃっても仕方ないかなと思います。


――この事件は、関東大震災の後2.3年の間は新聞などにも掲載されたのですね?
辻野さん:そうですよね。私も地元では個別の証言がなかなか取れないので、千葉の県立図書館に何日も通って当時の新聞を一つ一つ調べました。そこの図書館は、筆記用具持ち込みは禁止なので弁当を持って通い、そこからこの情報を拾い出したんです。


――当時の新聞が、図書館にはあったのですか?
辻野さん:ありました。マイクロフィルムになっています。少しずつ紙面を繰りながら、ここだと思ったところで止めればコピーが出来るようになっています。そして、コピーしたのをもとにこの本をまとめたのです。証言してくださる方が少ないので、結局ほとんど新聞から拾いました。調べたのは東京日日新聞です。いまの毎日新聞にあたります。


――こうして誰かが記録しないと忘れられてしまいますよね。地元にとってあまり都合のいい話ではないですからね。
辻野さん:そうですね。でも起こったことをなかったことにはできませんから。野田の方で、この本は読みたくもないって言う人もいました。
 
今の日本人は歴史を知らなすぎる
――この本を書こうとしたきっかけは?
辻野さん:ある在日韓国人のミュージシャンの歌を聴いて、その歌と演奏があまりにも素晴らしかったので、こちらの地元にお呼びして3回くらいコンサートをやったんですね。そのコンサートでは、そのミュージシャンが、日本でものすごくいじめられていたことを話すんです。友達が自殺したとか、すごい話を歌の合間に何度も話すんです。そしたらコンサートを聞きに来た人の中に「なんであの人は日本の悪口を言うんだろうね」「そんなに嫌なら自分の国に帰ればいいのに」と言っているのを聞いたんです。私はそれを聞いてびっくりしました。「ああ今の日本人は歴史を知らないんだな」と思い、やはり本を書かなければと思いました。


――いまの日本人には、在日韓国・朝鮮人の人たちへのヘイトスピーチに走るひともいますね。
辻野さん:そうですね。嫌韓・嫌中などといった書籍も目立ちますね。戦時中、旧満州での暮らしを体験した山田洋次監督は「植民地の収奪の上に僕らの豊かな暮らしが成り立っていた。日本人がどれほど中国人を侮辱していたかを肌感覚として覚えている…」と、毎日新聞紙上で語られていました。


――辻野さんはもともと取材をするお仕事をされていたんですか?
辻野さん:ええ。地域の下請けリポーターとして、タウン誌や千葉日報に100人あまりものインタビュー記事を書きました。


――そういうお仕事を引き受けるきっかけというのがあるんですか?
辻野さん:そうですね。まず、流山市立博物館友の会と出会い、編集長に「文章がうまいね」と、ほめていただき、色々なチャンスを与えていただきました。野田や柏のタウン誌をきっかけに、どんどん広がっていきました。


――昔からジャーナリストになりたかったとか?
辻野さん:そうではないですけど、書くのは好きで、10年間くらいレポーターをやりました。柏二番街のホームページの記事を担当したりもしました。
ちなみに元毎日新聞記者だった弟は、自分の本の売り上げすべてを、昔日本が迷惑をかけたことへのせめてもの償いとして中国に全額寄付しました。退職後も中国と交流を続け、歴史や平和についての講演を行ったりしています。
                      
「よくぞ書いてくれた」「よくこんな本を・・」
――本を出したことの反響はありました?
辻野さん:そうですね。色々な感想がたくさん来ましたけど、ある人からは「よくぞ書いてくれた」と言われました。また「よくこんな本を出しましたね」とも言われました。「こんな本」といわれてしまう理由はやはり、被差別部落のことに踏み込んだことと、地元でタブーとされていたことを掘り起こしたことでしょうね。でも褒めてくれる人もたくさんいました。私はいろんな方の資料を駆使して書かせていただいたのですが、やっぱり香川の石井先生や真相調査会の中嶋忠勇さんには、言葉につくせないほどお世話になりました。


――「よくぞ書いてくれた」という一方で「よくこんな本を・・」って言われる意味はなんとなく分かりますね。普通の常識からいえば、まず手を出さない方が身のためと思う人が多いでしょうから。
辻野さん:そうですね。一冊の本になるとは誰も思ってなかったでしょうから。だから出版できた時には大勢の人に祝ってもらいました。


――本の表紙に使われている慰霊碑の写真は、刻まれたお名前の名字の部分をぼかしてありますね。
辻野さん:そうです。表紙をどうするか迷っていたら、崙書房の編集長が、これがいいんじゃないかと言ってくださいました。加害者も被差別部落の被害者も、本の中ではすべて仮名としました。でも慰霊碑には本名が書いてあります。香川の地元では被害者の方もほとんど亡くなられ、子孫の方なども散り散りでお話も聞けませんでした。


――あの時は集団心理が働いたんですかね?お祭り騒ぎのような。
辻野さん:いちおう朝鮮人と間違えて殺したということになっていますが、念仏を唱えたり、国歌を歌ったりして日本人であることを訴えたわけですから、もしかして日本人とわかったのに、行商人に対する差別意識などが働いて、やっちゃえということになったとも考えられます。やはり人を差別する意識があったのでしょう。それが殺人にまで至るとはねえ。でも人を差別する心理は誰にでもある気がします。それが大きくゆがんだときにこのような恐ろしいことが起こるんですね。例えばヘイトスピーチをやっている人たちも、優越感みたいなものを持っていますよね。それも小さな差別の根っこだと思います。その根っこは誰しも持っていると思うので、行動を間違わないためにやはり学習しないといけないと思います。私はあの慰霊碑の前でそういう人権学習をしてほしかったです。野田市の人たちがこの慰霊碑を素材に人権を学ぶ取組をしてほしかったです。でもそこまで行っていませんね。


――ヘイトスピーチをやっている人たちも、正義の実現のためと思っていて自分たちは悪くないと思ってやっているという感じがしますね。辻野さんは、野田市に対して、この慰霊碑を使って人権について学んでほしいと言ったのですか。
辻野さん:はい、野田市も何年か前に比べると丁寧に対応してくれるようになりました。でも、有名な映画監督の森達也さんが、この事件をテレビで報道してほしいと企画書を持ち込んだらしいのですが、部落問題が絡んでいるからか放送されなかったそうです。被害者が被差別部落の人ということでマスコミも足踏みしたのだと思います。地元の香川でもあまり報道されなかったようで、そこでも差別を感じさせます。


――やっぱりこのような問題をメディアもしっかり見つめないといけないですね。
辻野さん:そうですね。


――私たちはこう考えています。もし当時、今みたいにメディアが発達していたらこのような震災後の流言飛語による虐殺は起きなかったかもしれない。一方で、関東大震災の前に当時のメディアが繰り返し伝えていたのが、朝鮮半島で起きている抗日運動など朝鮮人への恐怖を煽るような報道でした。だからこの事件を考えることは、メディアの持っている良い面、悪い面両方の勉強の材料になるかと思うのです。
辻野さん:やっぱり情報を鵜呑みにしない心が常にないとね。

――メディア・リテラシーですよね。今回は真実を地道に掘り起こしていく人の努力について生の声を聞かせていただいて大変感謝しています。どうもありがとうございました。
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