前回の記事『手を合わせること』の

続きの記事になります。


よろしければ

こちらもご覧ください😊







お宮参りをした神社にて

手を合わさせていただいた後


にわかに

お参りに来られる方で賑やかになり


さらには

幼稚園の子どもたちが

先生に引率されてやってきました。



子どもたちは歩きながら

🌸桜キレイ〜😆✨と大きな声をあげたり


境内にいる人たちに

「こんにちは〜」と挨拶したりしていて


列になり先生について行ってはいるけど

列の外へ外へ興味が溢れていっている様子



まるでそのエネルギーに惹かれるように

離れたところにいた大人も集まってきて


子どもたちが拝殿の前に着き

先生に習って

お参りをしている頃には


「かわいいね〜」と

子どもたちを見守る

大人たちのギャラリーができていました。



なんともほのぼのとした

その場のあたたかさに

離れがたくて


しばらく私もギャラリーの一員になり

様子を見ていたのですが☺️


見ているうちに



手を合わせる子どもたち


子どもたちを守る先生たち


その様子を少し離れたところから見守る大人たち


それらをまるごと守る神社


神社を守るこの土地



子どもたちが幾重にも

守られているのだということを感じて

ハッとなりました。




『私もこうして幾重にも守られ

 生かしていただいてきたし

 今もそうして生かしていただいている』







(そっとギャラリーから離れ

 美しい桜を愛でたり

 写真を撮ったりしながら

 心はさらに動いていきます・・・)







すべて守られた中で

生かしてもらっていて大丈夫なのだから


子どもたちのように純粋に

感動しているもの

興味がわいているもの


そちらに意識を向けていいのではないか






人はひとつしか意識を向けられません。


手を合わせようとするときに

例えば左手の動きを意識しているとしたら

同時に

右手の動きも意識するということは

できないのです。



私は今まで

『抵抗』している私を意識し

『抵抗』における様々を見てきました。


それが間違っていた、という話ではなくて

その軸にいたことは

むしろ私にとって必要

大切な財産になるのを確信しています。


その宝物を手に入れて

進むときなのかもしれません。



『抵抗』の対義語は『服従』ですが

『服従』はそれこそ長らく経験してきました。


『抵抗』と『服従』という極と極を知って

いよいよ

『私』でいるときなのかもしれません。






ふと見ると

幼稚園の子どもたちは

全員が桜の前に並び

先生に集合写真を撮ってもらっていました。



シャッターを切るその1秒が

写真として残っていく


さぁ、何を写す?

どこに意識を向けて

ピントを合わせていく?


そう問うてもらったように思います。




偶然という必然


神社にいる間に

たくさんの『気づき』をいただきましたし


無意識に受け取ったものも

たくさんあるように思います。


生きてきたいろんなときの私に

つながらせてもいただいて


まるで

時間旅行をさせていただいたようにも感じました。




帰る前に

感謝の気持ちでもう一度

手を合わさせていただきました。




空を見上げると

うっすらと日輪が☺️✨



いつも応えはあるよ



そう言っていただいたように感じました。








(神社でみつけたホトケノザ


 この赤紫の花を摘んで口に含むと甘いですよね。

 子どものときに「蜜〜😁💕」と言って

 吸いまくってたのは私だけではないはず笑)