映画「犬王」のメッセージをいろいろぼんやり考えてしまう

 

 湯浅政明監督のロングインタビューがあることをなべさんに教えてもらって読んだ。

 

 

 

ーーー 一部転載させていただきます ーーー

 

 舞台は室町時代。初めて日本が統一されていく時代です。そういうときは、同時にいろんなものが失われていった時代でもある。オリンピックのとき、スラム街が人目に触れないよう壁を作って封印されたりすることもありましたよね? それと同じで、この時代を境に、ホームレスのような人たちは絵にも描かれなくなり、消えたようになった。実際には変わらずいたことも分かっていますが、封印されてしまったんです

 

『犬王』の主人公ふたり、犬王と友魚(ともな)も、まさにそういう者たち。底辺から這い上がり、一世を風靡した能楽師であり人気の琵琶法師であったにもかかわらず、名前が広く残ったのは世阿弥や明石覚一だけだったわけです。

 

犬王は実在していましたが、記録にほとんど残っていない。歴史から消されてしまったふたりだったからこそイメージを膨らませて、エネルギッシュに生きた姿を描きました。

 

室町時代に生きた者、消えてしまった者たちの話を拾い上げる気持ちで作った

── 室町時代は仕分けが行われた時代だったということですか?

湯浅 そうです。そういう節目は沢山あると思いますが、確認できる最初の大きなものだったかもしれません。消える人と残る人が仕分けされた時代です。本や絵に書かれた人、本や絵を書いた人は残ったけど、他の人は消えていった。侍の話も後世に都合の良いものが残ったのではないかと思います。

 

明石覚一検校(※足利の出身で幕府の庇護を受け、琵琶法師の自治的互助組織である当道座を開いた)が記した、覚一本『平家物語』のテーマがそもそも、失われた者の話を拾って慰めることにあります。

 

また、後に侍たちのたしなみとなっていった能楽で演じられる、死者が出てきて語る“シテ芝居”も、かつて戦に負けて消えた人たちの逸話を、そうやって拾い集めて残すことで弔い、話を拾われた当人も報われるという意味合いがあったのではないかと思います。

 

ーーー 転載終わりーーーー

 

image

 

なるほどな...

 

消える人と残される人...仕分け 確かに

本や絵に描かれた人は残るけれど 書かれない人は残らない、消されてしまう...

 

 

 映画「犬王」を観て 確かに

 

 今も残っている 能や狂言といった伝統芸能をありがたがって観るけれど 確かに。

 

 今の時代にまで残されてきた素晴らしいもの✨ということで、ありがたがっていたけれど、確かに。

 

 今の時代に、残されているものは 当時の権力者の庇護があったもの ということだった...

 

 もちろん、今も残る お能や狂言に日々取り組まれている方々の努力や精進を否定するものでは決してないし、お能や狂言の舞台の素晴らしさをわたしは知っている。

 

 けれど、確かに。

「平家物語」だって いくつもバージョンがあっていいはずのもの、たしかになぁ!なるほど...一つの形でなくていいはずだった

 

 その時の権力者にとって「都合がいいもの」が今に残ってる、残されている...

 

 

 古い、残されてきた伝統のものを決してないがしろにするつもりはないし 素晴らしいものだと思うけれど 「古い、残されてきたものだから素晴らしい」というのは盲目的崇拝に近いというか 権威に平伏す 感じにもなってしまう。

 

 

 

 

 

 

 ネタバレになってしまうけれど 

 

 犬王は最後 時の権力者が「平家物語は一つでいい 他に語ることを許さない」と言うのに対して 服従、平伏する態度を示すのだけれど

 

 犬王は自分が受け取った平家物語を全てやり切ったから、だろうな...と思った。

 

 犬王は最高潮に踊る度に 平家の魂たちが浄化、成仏して天に上がる度に 呪いから解放されて 身体の部分を一つづつ取り戻していくのだけれど

 

 平家の魂たちを天に上げて 成仏させて 身体の最後の部分を取り戻した時 犬王は完全無欠になったのだけれど

 

そこで犬王は 生きているけれども 完了したというか

終わったのだな と思う 

 

 「犬王」...

 

  深い...

 

 

     ぜひ映画館でご体感ください!