今日 禅タロットを引いてみた。

「ガイダンス」である。

 

最近、「なんでイベントやっているのかな?」

って自問自答していて

 

それは「楽しいから」なんだけど

それだけじゃなくて

 

 イベント企画をするまでに、パートナーである先生たちとの交流やコミュニケーションから生まれる何かがワクワクであったり、

 

 「これは素敵だ!!」「今までにない!!画期的だ!!」と思って立てたイベント企画を面白い!素敵だ!と思ってくださってお申し込みくださったかたがたとのやりとりも面白いし

 

当日までの準備も楽しいし

もちろん、当日も楽しい...という

 

毎日が特別でミラクルな瞬間の積み重ねだけれど

 

その場所 その時間、その人間(ひと)たち

によって発生する時空間

はやっぱり特別でミラクルだと思う

 

そんな生まれる空間を創造していくことが

喜びなんだと思う

 

世の中にこんな素晴らしいことがある

こんな素敵な人がいる

そしてわたしもあなたも素晴らしい...

開花させていこう 楽しもう

喜びをひろげていこう そんな気持ち

 

 

 

 

 

 

起こる全てが意味あることだし

何があっても最高最善

 

 

ドタキャンとかあっても

「ドタ参のドタキャンなんてひどい!!」とか

「ひとに迷惑かけないで!!」「非常識!」とかじゃない。ひとに迷惑をかけたければ、ひとに迷惑をかけたっていい。って思ってる。

 

 

でも、それでいいのかな?

って今回は思った。

 

 

 キャンセルポリシーはちゃんと定めよう

 

 

 キャンセルするハードルを設けてあげないと

キャンセルする方向に流れてしまう

という人もいる ということがわかった。

 

 もちろん、キャンセルしたい人はキャンセルしたらいいし 来たくない人は来ないでいい。気乗りしないのにイヤイヤを無理して来てもらいたくないし。

 

 でも、やっぱり準備している側としては

来られることを前提として準備したり用意したりしてるし。


 キャンセル料 

「前日20%・当日80%・ご連絡なしは100%」

くらいは設定しておいていいと思う

 

 

 

 参加費も事前に振込みとかクレジット払いに

してもらってもいいかも。

そして、そのほうが割安になる、

という風に設定してもいいかも。

 

 

 

 

 

 

 今回、どうして「ドタ参のドタキャン」を

わたしの中で深く受け止めているかというと

 

 わたしがなんでも「いいよ〜 大丈夫だよ〜」にこにこ

と寛容な態度を常日頃示しているからこその

「ドタ参のドタキャン」なんだな

ということを 深く受け止めている。

 

 「わたしの愛する友人」が、わたしが「なんでもいいよ」という寛容さを示すことによって「なんでも許される」と思ってしまう...

 

 このパターンをほんとに、今まで何回繰り返して、悲しい思いをしていることだろう?このパターンを繰り返してはいけないって思っている。

 

 

「わたしの友人は ドタキャンをする」

 ということが悲しかった。

そして、友人にドタキャンをさせているのは

わたしの日頃の行いの結果であるいうこと。

 

 

 そしてわたしの日頃のなんでも「いいよ〜」により

わたしの友人が「ドタキャン」をすることによって

 

 わたしのほんとうに大事な友人でもある、大切にしたい先生の気持ちも波立たせてしまったことだと思う。ほんとうに反省している。

 

 もちろんわたしの大事な友人である先生は、「参加者が来ようが来るまいが楽しもう!どちらでも今回の最善のお導きだ!」とわたしと同じような考えでいてくれるから全くもって大丈夫なんだけど

 

 

 

 でも、だからといって...だめだと思った。

 

 「迷惑がかかっていないから 大丈夫」

 「あの人は強くて傷つかないから 大丈夫」とかじゃない

 

 

 もちろんこの宇宙は「なんでもいい」

 

 「何をしても許される」「オールオッケー」

 

 もちろん、そう! 「いいも悪いもない!」

 

 

 

 でも、だからこそ

 

 わたしの宇宙は

 

 わたしが決めなければならない。

 

 「これはいい」「これはいやだ」

 

 わたしの世界はわたしがジャッジをして決めていかなければならない。って思っている。