随分長い間ご無沙汰してしまいました。
この度、実家の建物を取り壊すことになり、実家の家具などの整理で夏から大わらわでした。
私の母は今から19年前に63歳で亡くなりましたが
住む人のいなくなった実家の整理中に、生前 母が作っていた短歌が次々と出て来ました。
短歌を詠んでいたことは何となく知っていましたし、父の介護中にも
実家でいくつかの短歌を目にすることはありましたが
ゴタゴタに紛れ、あまり真剣に読んでみることがありませんでした。
先日、
見つけ出した短歌のノートやメモを開いたところ
そこに書かれた短歌一つ一つから立ち上る母の思いに打たれ
涙が出て来て止まらなくなりました。
私の幼少期、私の実家は両親の仕事上、
家族以外の人間(他人)も合わせて10人ほどが一緒に暮らしていました。
明治生まれの舅姑が共に暮らし、人の出入りの多い家業のため
とても忙しい父と母だったのですが、
夜に一人でこんな風に短歌を作っていたのかと知り
母の人生がにわかに立体的に立ち上がって胸に迫り
母の思いに直に触れたようで涙せずにはいられませんでした。
たくさんの短歌の中には、舅姑を詠んだ歌が数多くありました。
10年以上、認知症になっていた祖父と、
頭はしっかりしつつも寝たきりの祖母を
仕事の合間にちょくちょく仕事場から戻って来ては毎日お世話している母でした。
夜中の3時頃にオムツ(当時紙おむつはなく)を外の水道で
洗っている母の姿を、夜中に目が覚めて、何度も目にしたことがありました。
母の歌は、夫(私の父)のことより 私たち三人の子供のことより
舅姑(私の祖父母)のことがより多く詠まれていて
短歌一つ一つが母そのもののように愛しく感じられます。
☆ 生涯におしろい買いたることなしと 老いて美し姑言い給ふ
☆ 眠る日と覚めたる日との周期ありし わくらばの姑に七草を炊く
☆ 一人ゆく黄泉への路は遠からん 足弱き姑休みゆきませ
☆ 夢に顕ちし 姑 紋付の羽織着て 長生きせよと言葉かけくる
☆ 現とも夢ともつかず老い父は九十二年の礼言い給ふ
そんな中には
私が1型になった時のことを詠んだ歌もありました。
☆ 足すくむ思いで入りし無菌室 昏睡の子の頬は冷たし
☆ 昏睡の子の目覚むるを祈る刻 短き夏の夜は明けそめる
☆ 昏睡より覚めたる子には過酷なる若年性糖尿とふ病名付きて
私は3人きょうだいの一番上でしたが、
忙しすぎる父と母に、全身全霊で反発するようになった時期もありました。
反発する私に対しての悲しみを詠んだ歌もたくさんあり、胸が痛くなります。
☆ ことごとに心閉ざせし吾子を思ひ 夕暮れの道 涙しつつゆく
☆ 異なれる思ひを持ちて 子と吾は 黙しつつゆく 彼岸花の道
☆ さまざまに思い悩みつつゆく吾に 試練のごとき風吹きてをり
☆ より深き悲しみもあらん ひたすらに 今を耐へよと神の声聞く
心の底から湧き上がる母への申し訳なさと、母への思慕で、涙は止まらなくなります。
今では、こういった歌に通じる気持ちを、
病気を持ってしまった我が子の子育てや少しばかりの介護によって
わずかながら経験させてもらい、
私もほんの少しは母に近付けたのかな、と嬉しく思います
私は、母が、いわゆる「お茶の間」でお茶を飲んだり
お菓子を食べたりしている姿を見たことはなく、それが子供心に何故か寂しかった・・・
学校で今日あったことも、一番聞いてほしい母に話す時間もなく寂しかった・・・
運動会などに来てくれるのはいつも祖母か伯母さんたちなのも、
誰にも言わなかったけれど本当は寂しかった・・・
お手伝いして傍に行きたくても手伝える空間がなかった、思いつかなかった・・・
忙しい母を大変だな、かわいそうだな、と子供ながらに心底から思いつつも
寂しい気持ちはどうすることも出来ず・・・
自分の居場所がないように感じ、生きてる意味が解らず
中高生の頃にはそれが反抗的な気持ちへと変わって行ったけれど・・・
一時は拒食症にもなったけれど・・・
それでも心の奥では、半ば諦めながらも母を慕い求め、もっと愛されたいと願っていた・・・
でも、それも、
自分が病気(1型)になってみて、解ったことがありました
私は母に、ちゃんとしっかり愛されていたこと、
いっしょに過ごす時間が無くて辛かったのは
私よりもむしろ母だったかもしれない、と。
常に身体を動かして、人のために動き、行動する人でした。
全ての仕事が終わってお風呂に入るのも家じゅうの一番最後(10番目)で
オシャレもしたことがなく、若い頃(30代)から髪は白髪だらけでした。
☆ 人の世に生きるきびしさ思ひつつ ぬるき湯浴びぬ一日の終り
☆ 化粧品 売る店員の爪赤し われおづおづと紅ひとつ買ふ
他の「普通の家」(何が普通なのかわかりませんが)のように
親と一緒にテレビを見たり、もっと身近に話したり出来る家がいいな~と
常に思って子どもの頃から寂しく不満でしたが
この年になって母の歌を読むと、母の一途で懸命な姿に
私は母の子で良かった、
あまり愛されていないかのように感じていたけれど、それは違う
こんなにも深い愛を残しておいてくれていたんだと、感謝でいっぱいになります
子供の頃の私の描いた絵には母の顔が描かれていません
これはこれで、今見ると問題ではあるのですが
今は、母の愛は歌からだけでも十二分に伝わって来ますし
むしろ、子供のこのようにしか描かれない母の辛さを思います。
☆ 嫁ぐ子に 持たせんとして針山に わが細まりし髪も縫ひ込む
☆ 逡巡の 果てに出でたる答なり 愚かな母になり切らんこと
☆ ゆく道の各各にはあれど つづまりは幸せつかめ三人の子ら
☆ 父母の待てる家庭は港なり 波に疲れし子よ寄りてゆけ
☆ オムレツを十皿も焼きたる日もありし ついに二人となりし夕餉よ
亡くなる3年前、
漬けた梅干しの壺を持ち上げた際に背中の骨を骨折し
骨折が良くなるよりも前に
玄関から出たところで走って来た自転車に跳ねられて膝の骨を折り
膝蓋骨全廃の障害を負って歩けなくなっていた母は
晩年、ベッドの中からしきりに私に言いました。
「○○(私)は、病気もあるし、骨も弱そうだから
時間がある時は、足腰を強くするために運動しておくと良いよ」と。
だから
母の言葉を愛の遺言と受け止め、一生懸命歩くことを続けています。
私の大好きだった祖母(母にとっての姑)もたくさん歩く明治の女性でしたから
祖母のように母のように、私も歩くのが好きです。
歩く時、大好きだった祖母のことや、母のこと、父のこと、
いろいろなことに思いを馳せ、道端の花や空を見ながら歩くと、
いくらでも歩けます。
歩ける足が与えられていることに心から感謝です。
これからも、母の遺言と思って、たくさん歩こうと思います。
亡くなる前の母は、私に
「○○は死ぬの、怖くない?」と私に聞きました。
私が母の気持ちを慮って曖昧に答えていると
「お母さんは怖いわ、とても。」と、真顔で私に言い、遠くをみつめる目になりました。
その母は、
亡くなって数日間、毎日私の夢枕に立ち、
私にたくさんの注意事を言い、ダメ出しをし、念押しをしました。
「こういう時はこれこれしちゃいけないよ」
「これこれはこうするんだよ」
「〇〇の時はこう気を付けるんだよ」etx.etc.
そしてその3日後の明け方に、私の夢?のようなものに出て来た母は
もう私ではなく上方を見ていました。
既に他界していた母の両親が上の方から母を迎えに来ていて
私のいる海の底のような昏い場所から、まるで人魚のようにヒラヒラと
母が両親の待つ明るい上方へ嬉々として昇って行くのを見ました
「死ぬのが怖いわ」と言っていた母でしたが、
とても嬉しそうに昇って行くのを見て、少しの寂しさを感じつつも
「お母さん、良かったね、怖くなかったね、良かったね」と、
母のために、良かったな~と嬉しく安堵し涙しました。
その後、私の娘が病気になった時や、私が具合が悪くなった時など
要所要所で姿形を変えて、母は夢に出て来てくれます。
若返ってとても明るい表情で出て来てくれます。
縁が薄いと思い、弟妹からもそう言われていた母と私でしたが
案外と絆は強いのかと感じ、嬉しく思います。
たくさんたくさん苦労をかけてしまった母、
あなたとは魂と魂でぶつかり合い、
たくさん傷つけ傷つき、生きているのがとても辛い時も多かった。
でも、今、私はあなたを尊敬しています。
私は、とてもあなたのようには生き切れないかもしれない、
でも、あなたの後を、少しでも恥ずかしくないように
精一杯歩いて行きたい。
私なりに家族や周りの人の幸せを第一に考えて一生懸命生きられる人になりたい。
最後までどうか見ていて下さいね。
そして、またいつか逢いたいたいです。
こんな育てにくい私を育てて下さり、心から、ありがとうございます。
私が幼い頃の、母との貴重な写真
私が学生となり実家を離れた頃に母に送った連続ハガキ
(私は既に覚えがなかったのですが)
番号を付けて糸で綴じられ、大事にしまってありました。
私の書き散らした書簡類全てが箱に入れられ大切に保存してありました。
久しぶりに書いたのに、1型のことはほぼ出て来ず
個人の重苦しく長いばかりの内容で、本当に申し訳ありません。
もし一首でも、母の歌に触れて頂くことが出来たなら、不孝者の娘として
それ以上の嬉しく有難いことはありません。
読んで下さった皆さま、本当に、心からありがとうございます。