kumac's Jazz
 「ジャズと関わって、早30年、もう体に染み付いています。」なんて、書き始めたジャズ日記でしたが、1年半でもう、ネタ切れとなりました。これ以上、無理に土日の更新を続けると、書かなくていいことまで無理に書いてしまいそうです。そこで、ここらで小休止とやらにしたいと思います(いわゆるミクシィ症候群?)。でも、ジャズのことで、感動的なことがあったら、気ままに更新しますね。それに、今までの日記は、それなりにkumac的ジャズ・アルバム紹介となっておりますので、どうかご活用を。
 って、書いてもう4ヶ月くらい過ぎてますが、気分はまだ「小休止」です。でも、更新の頻度が何故か上がって来てます。
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第2回楽都仙台と日本のジャズ史展

 

 

 仙台の老舗のデパート藤崎で昨年から開催されている展示会です。本当は、定禅寺ストリートジャズフェスティバルの開催時期に合わせて企画だったのでしょうが、昨年に引き続き今年も本家の定禅寺ストリートジャズフェスティバルが中止となり、ちょっと淋しい企画になりました。

 

 とりわけ仙台がジャズにゆかりのある街とは思えないのですが、「楽都」という銘を打つからには何か音楽との関連で秀でたものが街にあるのかなと考えると仙台クラシックフェスティバルもあるからでしょうか。kumac の一番の音楽に関した思い出は、正式な名称は忘れましたが、アジアの民俗音楽祭があったと思うのです。記憶ではチベットのあの長いホルンのような低音が響く音楽をひたすら聴いた思い出があります。

 一番は、昔から仙台は「学都」と言われていたので、それをもじったのでしょう。

 

 どこの街にも音楽は満ちあふれているわけです。

 

 本題です。藤崎からの案内のはがきには、

 

 1 仙台での開催を中心としたジャズコンサートのポスター、フライヤーなど展示

 2 写真家「南 達雄」氏によるジャズサックス奏者「阿部 薫」のオリジナル写真を展示

 3 「ブルージャイアント」コラボ酒・書籍などの販売

 

 と書いてありました。kumac は昨年、この企画を知ったときにはもう期日が終わっていて見に行けませんでした。今年は家にある物の大がかりな整理をしていたら、昔観に行ったジャズのコンサートのチケット幾つか出てきたので、懐かしいなと思い、自分が良くジャズコンサートを仙台に観に行っていた頃のことをもっと知りたくて出掛ける気になった次第です。

 

 上記1番目の仙台関係の展示は、コンサートのチケット、ポスター、パンフレット(フライヤーはなかった気がする、ってポスターとフライヤー(チラシ)の違いって大小の違いかな?)。ジャズ喫茶の燐寸、仙台でのジャズに関する出来事(コンサート等)の年表。戦前のジ仙台でのジャズに関する資料(新聞、チラシ等)。ジャイブ・ユニティ・ジャズ・オーケストラに関する資料。などなどでした。

 ポスターの約半分は仙台以外の東京や札幌などで開催されたときのものでした。コレクションしていた方が実際に観に行って求めてきた物だと推測しました。仙台でのコンサートのものと区別されて無くランダムに展示されていたので、ちょっと kumacのように過去の自分探しをして思い出に浸ろうとするときに、あれこんな人(例えばコルトレーン)が仙台に来たっけ?となって少々頭が混乱しました。

 多分、仙台視点での展示を考えた場合は、年表を縦軸にしてポスターやチケットを関連付けたらもっと良かったと思います。若い方でジャズを聴き始め、過去の偉大なジャズメンのことに興味が湧いた方が見たときに、仙台にもこんな凄いミュージシャン(デューク・エリントン、カウント・ベイシー、マイルス・デイビス等)が来たんだと直ぐに思えるのかなと思いました。

 

 kumac 的には ジャズ喫茶 Jazz & Now のあのレコードを入れる袋が展示されていて感慨深いものがありました。

 

 最後に、kumac の手持ちのチケットです。1975年のキース・ジャレット・クヮルテットのものです。会場は、市民会館(大ホール)と書かれていますが、実際は仙台市市民会館小ホールです。記憶が曖昧なのですが、この日は宮城県民会館でハービー・ハンコックのコンサートもあったような記憶があります。客の入りが悪かったので小ホールにしたのでしょうか。当時、ヘッドハンターで大ヒットのハービー・ハンコックとあのインパルス時代のとてもスピリチュアルなキースのカルテットでは人気では雲泥の差があったのは致し方ありません。

 kumac はキース・ジャレットで最も好きな時期です。アンコールのインデアン・フォーク・ソングの響きが今でも忘れられません。

 

 

 

 

ドナルド・L. マギン(著)・村上 春樹(訳)『スタン・ゲッツ 音楽を生きる』(新潮社)

 1996年に原著が発行されたスタン・ゲッツの評伝です。ジャズの形を語る上では彼の名を特段に語らなくても、そのおおよの変遷は語れると kumac は思います。しかし、ジャズの表情を語る上では彼抜きでは決して語れないと思います。つまり、「屁理屈はいいから、彼の演奏を聴いてみろ、これがジャズだ。」ということで100人中100人が凄いと感じるはずです。もし、凄いと感じなかったら、それはジャズとは何か分かろうとはしない人です。

 

 それほど凄いジャズミュージシャンのしっかりとした評伝が、日本語で読めないことがとても kumac には不思議でした。それで原著を買って読もうとしたのですが、最初の一行で止まってしまいました。無理です。

 

 例えば、FOREWORDと書かれた序文の冒頭では、「NATURE PROVIDED  Stan Getz with abundant talents for music:perfect pitch, an uncanny feel for rthythmic nuance, gret sight-reading skills, and a photographic memory.」と書かれていますが、それを訳者は「天はスタン・ゲッツに惜しみなく音楽の才能を与えた。絶対音感、リズムのニュアンスに対する類いまれな感覚、見事な読譜能力、そして驚くべき写真記憶」と訳しています。直訳すると「abundant talents」は「豊富な才能」。「uncanny feel」は「並外れて鋭い感覚」となります。大して違いはないのですが(いや、全然違うだろうと言う方がほとんどででしょうか・・・)、これを延々と387ページもある分厚い本と一文字一文字格闘する気力体力は kumac にはありませんでした。

 

 そしたら、しばらくして、図書館の音楽のコーナーの書棚になんとあるではありませんか。邦訳が。しかも邦訳は、誰しもが一番適していると考える村上春樹です。

 

 ジャズメンの評伝は、どれもけっこう厚い本です。kumacがこれまで読んでここで取り上げたものは、チェット・ベイカーの評伝であるジェイムズ・ギャビン、(訳)鈴木玲子『終わりなき闇 チェット・ベイカーのすべて』』(河出書房新社)、スコット・ラファロの評伝であるヘレン・ラファロ・フェルナンデス、(訳)吉井誠一郎、(監修)中山康樹『スコット・ラファロ その生涯と音楽』(国書刊行会)、ジャコ・パストリアスの評伝であるビル・ミルコウスキー(訳)湯浅恵子『ジャコ・パストリアスの肖像』(リットーミュージック)、ビル・エバンスの評伝であるキース・シャドウィック『ビル・エバンス 〜ミュージカル・バイオグラフィー』(シンコーミュージック)とあります。この中で、kumac が一番大事にしているのはチェット・ベイカーの評伝です。大事にしているという表現はかなり語弊がありますが、一人の人間の一生を丁寧に描いている点で印象深く、有名なジャズミュージシャンということを抜きにして、自分の生き方を振り返えさせられる人生を語る力を持っているからです。

 

 で、この『スタン・ゲッツ 音楽を生きる』は、そのチェット・ベイカーの評伝に近いものがあります。演奏スタイルや演奏技術、その才能がどうして培われたのかについては、どの評伝も書いていますが、チェット・ベイカーのそれに近い点は、どうしてあの音楽が生まれたのかきちんとその生物的で精神的な背景を捉えているということです。そこに正解はないのですかれど妙に納得させられてしまいます。

 

 スタン・ゲッツの音楽性については、村上春樹の<叙情と悪魔>と表題が打たれた「訳者あとがき」を読めば十分かなと思います。えっ、それだけ、と言われそうですが、つまるところそうです。

 

 その上で、興味として、どういう状況であの録音されたのかを知りたければ、大体の録音時の生活やそれに到る状況がわかりますし、技術的なことや持って生まれたと思わせる培われた才能のことは幼年時代のページを読めばおおよそ分かります。

 

 問題は、どうしてあれほど薬物・アルコールに依存していたスタン・ゲッツが、薬物(酒類を含む)摂取中の演奏にも関わらず素晴らしい演奏ができたのかという問いです。村上春樹はそこまでのことに踏み込んでいません。この本は小説ではありませんから当然のことです。

 

 その問いへの答えは、もう周知の事実なのかもしれませんが、この本を違った視点で読めばなんとなく見えてくるところはあるのではないかと kumac は思っています。それは、精神科の病気を持っている方のリカバリーという視点で読むことです。その視点で読むと、つまりは薬物・アルコール依存症からリカバリーした人の物語として読むということです。

 

 kumac が読後に感じた問いへの答えは、失敗を恐れ完璧を求めた弱い人間だったからこそ素晴らしい演奏を残した、ということです。「失敗を恐れ完璧を求めた弱い人間」というのは、成功した父方の家族と貧しい母方の家族の狭間で成功を息子に託した母親と託された子という図式に現れてきます。その重圧からスタン・ゲッツが逃れる方法は音楽しか無かった。演奏中には自分が最も成功した人間になれたのです。そして常に成功を自分に課した結果、音楽から離れた瞬間に彼には失敗の恐怖が襲ってくるのです。だから日常では薬物や酒を飲まないと恐怖から逃げられなかったということになります。

 

 かなり穿った見方を書いています。そして、この評伝の半分以上は家族との飲酒にまつわる問題が描かれています。なので、音楽的なものをこの評伝に求めると長々とくだらない家族間のもめ事が事細かに書かれており、退屈するし、面白くないと思われる方も多いかと思います。

 

 でも、例えばアルコール依存症の方のリカバリーという視点で読むと面白いです。キーワードを羅列すると、2つの違った考えのAA(アルコホリクス・アノニマス)、同じ薬物・アルコール依存症だった1番目の妻、抗酒剤を本人に隠して飲まし続けていた共依存の2番目の妻、アルコール依存症からリカバリーした経験を持つ3番目の妻、何度もスリップしても見放さなかった友人達やAAの仲間達、入院治療によるファミリーセラピー、アルコール依存症になった息子等々・・・。そういう視点でこの本は書かれていませんが、アルコール依存症の方のリカバリーの例としてとても良い書籍ではないかと思います。

 

 つまるところ、スタン・ゲッツもただの人間だったということです。誰でも何か得意とするものはあるのですから。だから、冒頭の序章に書かれていることで言えば、天はスタン・ゲッツちょっとの運を与えたのではないでしょか。誰にも才能はあるのですし、天は誰にも平等に才能を与ているのではないでしょうか。もし、天(自然)がスタン・ゲッツに与えたちょっとの幸運だけなのかもしれません。

 

 最後に、今はとても便利な時代になりました。この本を読みながら、そこで描写されているセッションや録音の記述は、Spotifyなどのアプリがあればいつでも簡単に、もちろんお金はかかりますが、リアルタイムで聴くことができます。例えば、スタン・ゲッツが酒を断つことができたとき癌に冒されていることが分かります。スタン・ゲッツはどうして今、やっと立ち直ったのにと思うのですが、体力が持たず息切れする体を押しのけて演奏する『People Time』の記述を「First Song」を聴きながら読んでいると涙が溢れてきます。いや、鳥肌が立ってしまうとうまさにこのことです。

 

 

 

 

 

 

追悼 チック・コリア

 チック・コリアが亡くなった。音楽のジャンルの輪郭がぼやけてきている現在、ジャズの本流のミュージシャンが一般的なジャズの音楽家としての認知を受ることが最近はなくなってきている中で、数少ないジャズという言葉と強く結びついた有名なジャズミュージシャンだったのではないでしょうか。例えば、日本で言うところの大友良英はジャズで認知度が上がったわけはではなく、あまちゃんのテーマ曲でブレイクした人です。本来のジャズのフリーインプロビゼーションのミュージシャンとしての評価は、果たしてどれほどかと考えれば、kuma 的に言えば先日お亡くなりになった近藤等則の道程に敬意を払いたくなります。そういう感じで、乱暴な言い方をすれば、チック・コリアは近藤等則がジャンルを超えて尊敬される存在であるような存在であったと思います。・・・・変な書き方ですね。

 

 生演奏を体験したのは2回、2006年の東京JAZZでの上原ひろみとのデュオ演奏。2013年の仙台の東北大学萩ホールでのスタンリー・クラークとのデュオ演奏。こう書くとデュオだけですね。チック・コリアは相手に合わせてさりげなく自己主張をします。相手次第でどんどんと引き出しから宝石のようなピカピカした音を出してくる、絶対相手を圧倒しようとはしない優しさを持っているそんな演奏家だと思いました。萩ホールでの演奏会の日は彼の誕生日で、ステージで奥様がハッピバースデーを唄ってお祝いしている光景が浮かんできました。ご冥福をお祈りいたします。

 

 

Joe Albany『EPIPHANY』

 ジョー・オーバニーのソロピアノアルバムである。録音は1976年1月6日に自宅で行われている。多分、私の再生装置が壊れていなければだが、モノラル録音と思われ、音質はあまり良くない。どちらかと言えば記録として考えた方が良いと思う。最初からレコードとして発売されることが決まって行われた録音とは思えない。しかし、それでも十分にジョー・オーバニーの癖のあるピアノを楽しめるし、曲に対する驚くほど素直で情感豊かな演奏を聴くことができる点、目から鱗と言ってもよいほど素敵な作品です。

 

 この作品に収められている曲は全曲がビバップ時代に演奏された親しみのある曲である。ソロ演奏なので、当然に曲のテーマとなるメロディから自分で拍を定めて作り上げているわけで、これまでほとんどバンドの中で、最低限ベースとドラムバックでリズムを刻む中での演奏の演奏と比べて聴くと、演奏の流れに然程の破綻がない。そこがこの作品の聴き所なのだと kumac は確信する。

 

 7曲目「ブルーバード」を聴くとよくわかるのだが、元々持っている曲の旋律もあるのですが、リズムの取り方がラグタイム風であり、この点セロニアス・モンクにも通じるし、アドリブソロになると激しく音を繰り出してくる。この激しさは、ビーバップの特徴であるとkumac が思っているソロにおける感情の爆発そのものである。パーカーのソロに匹敵すスリル感がある。思わず微笑んでしまうのです。

 

 ビーバップの時代から演奏しているジャズメンは、コードに忠実であることはもちろんだが、曲の持つ情感を含んだメロディーにも忠実で、アドリブソロに入っても曲を唄っている印象がある。感情が乗ってきて、フレーズがある曲線を逸脱して飛んでしまうことはあるにせよ、楽しんでいるという表現でいいと思うけれど、その世界に没入できている。コニッツにしても、あの独特な抑揚のないメロディラインにせよ、曲の持つメロディーを自由に奏でている点での聴き所がある。

 

 遊園地のアトラクションのジェットコースターのような印象を持つ曲「スロー・ブルース・イン・F」(11曲目)を聴いていると、曲に酔っているジョー・オーバニーが見えてくる。以外とカーブが緩やかなのですね。それに比べて次の12曲目「オー・プリヴァーブ」は急カーブの連続で速度が上がり、手数もいつもの数倍あり、その尾を引く流星のような鮮やかな音の流れに引き込まれてしまう。あっという間のたった1分55秒の演奏ですが、永遠を感じさせる凄みがあります。激しい演奏なのでしょうが(聴いている私もそう思いますが)、演奏後に疲れた、いややり終えたという安堵のため息が聞こえます。そして13曲目「スイート・アンド・ローリー」では、スケールの大きな演奏を披露してくれています。両手の指をめいいっぱいに使い、旋律を奏で、興が乗ったところでうめき声を上げて、さらに時として金属片がキラリと光るタッチを淹れて、そう宇宙からキラキラとした粉雪が降ってくるようなイメージが浮かぶ曲です。

 

 最後に、ジョー・オーバニーの声が録音されています。英語がわからない kumac には何を言っているのか理解不能ですが、曲の録音日時のデータを吹き込んでいるらしい印象は持ちます。

 

 最後に、この CD の杉田宏樹氏のライナーノーツは、ジョー・オーバニーの音楽家としての経歴を詳しく書いています。ジョー・オーバニーの音源を辿りたい方には道しるべになるものと、ありがたく読ませていただきました。楽しみが増えたかな。次、何を聞こうかなと思えるのはとても幸福です。

 

 

 

 

 

 

 

Fabrizio Bosso『Shadows, omaggio a Chet baker』

 イタリアのトランペッターのファブリッツォ・ボッソがチェット・ベイカーが残した日記『ロストメモリー』の朗読と共演し、ピアノの伴奏だけで演奏する動画の配信です。

 

 これは ATER Fondazione というイタリアのネットワーク劇場(インターネットによる音楽を含めた舞台芸術の配信事業)による録画配信です。録画はイタリアのエミリア=ロマーニャ州リミニ県にある町のレジーナ劇場で行われました。多分、公開されたのはこのブログを書いている今朝(午前4時頃)ですね。

 

 kumac にとっては、2つの点でとても興味深い演奏です。一つは、朗読という人間の<唄>ではない<読む>という声自体(会話)への興味です。言葉が、言語が身体に染みついた「音」としての特徴が露わになると言う意味で、言語の魅力をどう感じることができるか、そしてジャズとの関わり方、例えば白石かずこや吉増剛造と沖至のコラボみたいな覚醒が起きるのか。

 

 もう一つは、ファブリッツォ・ボッソの演奏です。このステージはでチェット・ベイカーに捧げたものですが、ファブリッツォ・ボッソはチェット・ベイカーが残したいわゆる名演奏を演じているわけではありません。あくまでファブリッツォ・ボッソのスタイルで、日記の朗読に対してトランペットで会話しているイメージです(ピアノジュリアン・オリバー・マッツァリエッロも加わります。)。このストリーミング配信の説明だと「ベイカーのメモはファブリッツィオ・ボッソのトランペットによって返され、彼の思い出はマッシモ・ポポリツィオの声によって返されます。」と Google さんが翻訳してので、対話というよりも、イタリアの俳優マッシモ・ポポリツィオが語るチェット・ベイカーの日記に対して、その区切り区切りで言葉への応答をトランペットで行っています。それは即興のメロディではなく、既成の思い出の詰まった曲による応答です。思い出とは、ファブリッツォ・ボッソの思い出とチェット・ベイカーのメモ(日記)とがシンクロするなにものかなのでしょうね。この辺りは、画面を見ていると事前にシナリオがきちっとあるようですが、ファブリッツォ・ボッソの前には譜面台がありませんから、即興で曲を演奏しているのというよりも、多分、曲名とタイミングは決まっていたのでしょうね。

 

 声に出して読むと言う行為とそれを聴くという行為。それによって伝わってくる人の魂、感情と言ってもいいのかもしれませんが、とても魅力的なイベントです。

 

 ファブリッツォ・ボッソのトランペットは、テクニックは一級品ですが、幅が広いです。ウィントン・マリサレスの饒舌さがあるかと言えば、ルイ・アームストロングの陽気さもあり、ロックやヒップポップなどの現代的な感覚もあり、ゴスペルあととても楽しめます。このステージでは、「You don't Know what is Love is」や「So What」などを演奏していますが、それはあくまでチェット・ベイカーに捧げた演奏です。とても演奏が控えめです。チェット・ベイカーの魂に言葉という声を通じて触れることで生まれる心境なのかなと思います。

 

 とりとめがない感想になりましたが、いいものを休日の土曜の朝に触れさせていただきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Lee Konit『 in Europe '56. Paris (Unreleased) ..』

 正式タイトルは『Lee Konitz in Europe '56. Paris (Unreleased) And Köln Sessions』です。

 

 リー・コニッツの1956年1月にパリとケルンで行われた3つのセッションを収めた作品です。このブログで多分、最も多く取り上げたミュージシャンがリー・コニッツだと思います。kumac がジャズを聴かずに怠けている間に彼は新型コロナウイルスに感染して、私にとってはあっけなくお亡くなりになりました。年齢も年齢だったので、それほど大きなショックはありませんでしたが、ジャズ・ジャイアントがまた一人この世から居なくなってしまったという、寂しさがあります。

 

 同時代を生き、ライブを直接に聴けたことは何よりも、kumac 自身への、kumc自身の生きた証という置き土産ですね。

 

 この時期(このアルバムが録音された1956年初頭)は、1955年6月に『Lee Konitz With Warne Marsh』が録音され、1956年9月に『Inside Hi-fi』が録音された間の時期です。コニッツの演奏は、この時期はトリスターノの音楽から自由になろうとして模索していた時期とも思えます。自分が自由にインプロヴィゼーションができるスタイルを探し続けていた(最晩年までもそうですが)わけで、楽曲に対するアプローチがその時々のセッションで変わります。その変化の一番の要因は、共演者との音の関係だと思います。

 

 この作品でのは、最初の3曲、パリでの録音が Lee Konitz(as)、Bobby Jaspar(ts)、 Lars Gullin(bs)、Rene Urtregerp(p)、Sacha Distel(g)、Pierre Michelot(b)、Christian Garros(d)のメンバーです。ここでは、パーカーの作品( 「Now's the Time」「 Half Nelson」)を2曲とトリスターノの作品1曲(「Ablution」)演奏をしています。ここでのパーカーの曲を演奏しているということもあるのかもしれませんが、コニッツはどことなく楽しそうに(演奏が生き生きとしている)演奏をしています。。それに、ソロをメンバーがほぼ同じウエイトで行っています。パーカーの曲はメロディにメリハリがあり、生き生きしているので演奏全体にまとまりがでるのかなと思います。そいいう時には、コニッツの演奏は自由度を増しますし、自由度が増すと音のキレが鋭くなります。この傾向は、『Motion』 以降となると少し違ってきますが(キレ方が違う)、カミソリ的な演奏を期待する方には、それなりに裏切らないかなと思います。「Now's the Time」の演奏が絶品です。

 

 4曲目以降はケルンでの録音です。パリが1956年1月16日、ケルンが同年1月17日、21日の録音です。ケルンでの演奏のメンバーは Lee Konitz(as)、Hans Koller(ts)、Lars Gullin・Willi Sanner(bs)、Roland Kovac(p)、Johnny Fischer(b)、Rudi Sehring・Karl Sanner(d)です。3曲演奏をしていますが、コニッツやトリスターノ、パーカーの曲はありません。そしていずれもがスローテンポのメローな曲です。さらに、ソロはほとんどコニッツが一人で担っています。どうしてこいうセッションになったのかわかりませんが、作曲がヨーロッパのミュージシャンのものなので、彼らが自分のこんな曲をコニッツに演奏して欲しくてこういうスローテンポの演奏になったのかなと推測できます。コニッツのスローバラードはなかなか聴けないので興味のある方は聴く価値はありそうです。6曲目「Late Summer」でのソロはしっとりとした演奏でいい感じです。

 

 7曲目以降は、上記のケルンの同じメンバーでのセッションで、ここではトリスターノとコニッツの共作曲が1曲、トリスターノの曲が1曲、Roland Kovac の曲が2曲、最後にスタンダードナンバーの「I'm Getting Sentimental Over You」が取り上げられています。演奏がフェードインで始まるものやフェードアウトで終わるものなど切り貼りの録音になっているものがありますが、7曲目トリスターノとコニッツの共作の曲「En Rodage」ではコニッツがバリトンサックスを吹いています。ソロはコニッツのバリトンサックスのソロから入り、続くソロが Lars Gullin のバリトンサックスと、バリトンサックスのソロが続きます。ここでの互いの演奏の比較は面白いです。コニッツはかなり緩急を使います。それに、音域も広いです。さらに唄うように演奏をします。どこか間延びした感があるのですが、コニッツの特徴がとてもよく聞き取れます。続く、 Lars Gullin のソロは基本に忠実という感じですかね。リズムに忠実に拍を刻んで、フレーズをなめらかに回します。気持ちよい演奏ですが、新鮮味はさほど感じられません。8曲目「Lee-La-Lu」はミデアムテンポのブルージーな曲です。題名に Lee と付くので、作曲した Roland Kovac がコニッツのために作曲したものかもしれません。ここでのコニッツの演奏は秀逸です。とてもノリノリでかつ慎重で大胆、スリル感もあり、とてもうれしくなる演奏です。多分、この作品の中で一番よいコニッツが聴けます。どこか、『Motion』を彷彿させる演奏です。 Roland Kovac のピアノソロも素敵です。

 

 この時期、アメリカではハードバップが全盛でコニッツの出番はあまりなく、自分がやりたい音楽はヨーロッパに行かないと自由にできなかったのかもしれません。

 

 最後に、このCDにはボーナストラックとして1月10日と1月14日の録音の曲が一曲ずつ収められています。どうしてボーナストラックとして納められたのかは、コニッツの演奏の良さがあるからなのでしょうね。各人のソロの後に観客の拍手の音が入りますから、どちらもライブ録音です。

 

 

 

 

 

Aquiles Navarro『TOTAL IMPROVISACIÓN』

 昨日に続き2日連続の更新です。

 

 それには訳があります。昨日の自分の記事をツイートしたら、当の本人の Aquiles Navarro が<いいね>をしてくれたので、彼のTwitterをフォローしたところ、このストリーミング配信の発売されたばかり(発売は2020年12月28日)に出くわしたという訳です。この縁を無駄にはできないなと思った次第です。

 

 Aquiles Navarro のトランペット演奏自体は、kumac にとってはまだ未知数です。テクニックがあるともまだ思えないし、これまでのトランペットの管楽器としての演奏スタイルをなにか凌駕しているとも思えないし、どう取り込んで良いのかわかりません。それでいて Aquiles Navarro の音楽に吸引力があるのは、彼から生まれる音の世界がなにか得体の知れないものを生み出している、生み出そうとしているそんな気がするからです。

 

 それは何か、端的に言えば Aquiles Navarro のルーツであるところのパナマの土(生命)、と、今を生きているアメリカという社会の自動化された無機質な世界の間に起きている<自分>を表現することが、何かとぶつかって、何かが生まれているという実感が私に持てているからだと思います。

 

 基本、この作品は Aquiles Navarro のソロ作品なのですが(11曲目「[TE VEO] feat. Christian Contreras」は Christian Contreras のテナーサックスの演奏です。)、トランペットによるソロ演奏ではありません。これまでなら周りに居るはずのバックメンバーがそのまま電子音に置き換わっています。時にリズムだったり、時に周りを覆う闇だったり、時に胎児に聞こえる子宮内の母音だったりします。その音の世界の中を Aquiles Navarro が演奏していきます。

 

 ラフなスケッチなのかもしれません、この作品は。

 

 1曲目「 [NUEVO MUNDO] 」は、メランコリーな曲です。ゆったりしたラテンの幻想的なリズムに乗ってトランペットの音が無機質に響き渡ります。アーバンタッチの曲ですが、どこかロック調にも聞こえるし、

 

 2曲目「 [DONDE] 」は、地響きのような緩やかに乱打する大太鼓の電子音にメロデアンスなノイズが被さり、これまた無機質なトランペットの音が響きます。何かを演奏するというよりは、何かを表現している印象があります。それは無いんかといえば、強いて書くと安心していられる身を置きたい場所かな。

 

 3曲目「 [MUÉVELO] feat. WAVY BAGELS & BOB BRUYA 」は、ベースにBOB BRUYA 、ビートに WAVY BAGELS がクレジットされています。最初にコーラスみたいな節回しが現れそのリズムに乗って、地下を蠢いている太い虫のような音にバチを叩いているような音が重なり、トランペットソロが響きます。こういう音を作りたかったのでしょうね。演奏したいというよりは、音を作りたい、という感覚です。

 

 4曲目「 [RUMBA SATURNO]  」は、けっこうメロディアンスな曲です。

 

 6曲目「 [CÓDIGO]  」遠くで息を伸ばして咆吼するトランペットの音が聞こえ、目の前では藻掻いている人が渦巻きのように回っている、そんな電子音が全体を覆う曲です。ここまでの3曲を聴いているとティル・ブルーナーの世界にどこか相似を感じます。無機質であることやノイズに近い電子音を使うこと、ビートの効いたリズムなど決定的な違いはあるのですが、音楽全体にある趣の雰囲気を醸し出す工夫にかなり執着しているところが似ています。どこかスタイルを求めているのでしょうかね。

 

 コロナ渦で自分の内面を掘り下げた静かな作品なのではないでしょうか。

 

 

A.Navarro&T.Holmes『Heritage of the Invisible II』

 久しぶりの記事掲載です。この間、健康診断で左耳の低音の聴力がかなりう低下しているのがわかり、それ以来極力、集中して音楽を聴くことを止めていました。それでも苦にならなかったのは、特段、集中して聴きたい音楽がなかったということだと思った次第です。自分にとってどういうことが起きていたのかよくわかりませんが、外的要因としてはオンライン配信が主流になりつつある中、あえて物(CD)を買ってまで聴きたいものが特になく、その薄らいだ気持ちを結局ネット上に溢れ尽くすジャズを把握することは、これまで以上にみみっちい作業にねることに嫌気が差したということかなと思います。

 

 最近(ここ1年くらいです)、少しずつジャズを聴き始めてはいました。聴いていたのは、NHK-FM で放送されている(聞き逃し配信は後ででも聴けるのでうれしいですね)、「ジャズナイト」です。大友良英はどうも好きにはなれないのですが(笑)、ジャズのことを本当にわかりやすく紹介してくれています。まあ、とてもまろやかなおじさんになっていて、尖っていないのがいまいち気に食わないのですが、それにノイズミュージシャンらしく振る舞って欲しい((そんな振る舞いがあるのか?ないね)と思うのです。で、この番組で印象に残るのは、オーネット・コールマン特集でのオーネットの音楽の解説とエルビン・ジョーンズ特集で流された彼の最初のレコーディング演奏です。エルビン・ジョーンズの最初のレコーディング演奏は、kumac が最も愛してやまないジャズミュージシャンであるビリー・ミチェルのバンドでの演奏でした。それを聞いた瞬間、おったまげた kumac でした。

 

 この間、これもずっと追っかけていたリー・コニッツが新型コロナウイルスで死亡しました。このブログを更新していた頃に最後にやり残したのが、彼の邦訳本アンディ・ハミルトン『リー・コニッツ ジャズ・インプロヴァイザーの軌跡』(小田中裕次訳、DU BOOKS)読了後の紹介記事でした。もう一度、読み直してこのブログで感想を書きたいと思います。

 

 で、再開です。昔ほどのページにはならないと思いすが、気が向いたときにたまに更新したいと思いますが、そこで再開するに当たって何から感想を書こうかなと思ったら、思い浮かばないのです。過去の録音はちょっと面白くないというか、まだ興味がわかないので、何か新しいジャズを聴きたいなと思ったのです。しかし、どこから入っていいかわかりません。ヒントは、先ほど照会した大友良英のラジオ番組にありました。シカゴジャズです。

 

 と長い前書きを終えて、これからこの Aquiles Navarro And Tcheser Holmes『Heritage of the Invisible II』の感想を書かせていただきます。

 

 最初、新調した iMac 27inch に音のデータを取り込み、ヘッドフォンのジャックを差し、現れた音がどうもへんなノイズだったのです、なにやら最新の iMac とヘッドフォンの相性が悪くて接続不良を起こしているのと思ったのです。そこで何度もジャックを取り外してはまた入れ込む作業を繰り返したのですが、改善しません。その間、iMacのミュージック(ソフト)は1曲目を再生しています。そうです、このノイズは1曲目「Intial Meditation」だったのです。そこで思ったのが、ああやっぱり・へ・ん・て・こ・り・ん・な・演奏だというものです。そう、未知の識らない音を聞きたかったのです、その意味でこのCDを選んだのは正解でした。

 

 全体を聞き通しただ印象は、<雑多>です。当然、何かの音楽の影響は聞き取れるのですが、その組み合わせが新鮮です。例えば10曲目「「remix by madam date」は電子音のビートボックスの音が延々と鳴り続けます。このビートはもはやジャズという範疇には入りませんね。ソルフル・ミニマル・ミュージック・ファンク・ボックスという感じです。タイトルに「remix」と入っていますから彼らの表現する音楽の一部だということなのでしょう。

 

 1曲目「Intial Meditation」は、最初の瞑想と訳せるのでしょうか。この作品の冒頭に置かれた精神的な初まりの状態ということでしょうか。曲の中で言葉が語られますが、スペイン語(多分)です。ですから、この作品の演奏者である2人のうちの1人であるトランペッターであるパナマ系カナダ人のアキレス・ナヴァッロの母国語です。シカゴを拠点に演奏をしているのですが、自分たちの存在の根源はどこにいても同じということでしょうか。多様性というものともちょっと違う感覚です。

 

 2曲目「plantains」は、シンプルなアキレス・ナヴァッロのトランペットとアンドチェザー・ホームスのドラムの掛け合いの演奏です。そこに何かの趣向(トランペットのエコーはありますが)はありません。こういう非メロディアスな演奏は、最近、kumac は好きです。音楽ではなく、最近は小説を読む場合、あまりただ単に言葉が書かれているものが好きです。だからボルヘスの『砂の本』やプルースト『失われた時を求めて』とか安心して読めます。そういう感覚です。尖っていて好きです。

 

 4曲目「M.O.N.K(Most Only Never Knew)」は、題名の通りセロニアス・モンクとの関連の作品(多分彼に捧げている)です。アップライトピアノによるモンクメドレーソロ演奏です。演奏は Nick Sanders括弧に入る副題らしき「Most Only Never Knew」はエキサイト翻訳だと「ほとんどは決して知らなかっただけである」となりますが、意味はこれでいいとは思いませんが、どこか頓智の効いた言葉なのだと思いますが、モンクか文句あんのか、的なノリりでしょうか。

 

 やっぱり面白いですね。いい演奏を聴かせていただきました。ジャズというカテゴリーがどんどん広がっていき、周辺の音楽と溶け合って、時には輪郭を明確にしたり、入れ替わったり、と。それでもジャズと認識して聞く己、面白いです。

 

 録音は、2019年10月30日と11月2日(2ndと表記されており日付でない可能性があります。)だと思いますが、クレジットを読むと2013年とか2017年の音源もありそうです。

 

 

 

 

 

Lee Konitz『Frascalalto』

 2015年11月30日と12月1日に録音されたリー・コニッツの現時点(2018年6月3日)での最新作です。最新作と言っても、今から約2年半前の録音です。私が聞いたその前の最も新しいリー・コニッツの演奏が2013年の東京ジャズでのライブなので、さしあたってそこからの変化の確認ということになるのですが、リー・コニッツの演奏はサイドメンによって微妙に変化するので、時間的な変化はその影に隠れているでの大して意味がないのかもしれません。

 

 現時点でもインターネットで検索すると6月のライブ予定が掲載されていますので、まだ現役で活躍しています。リー・コニッツの演奏スタイルは、自身の中で発生する即興演奏への意欲によって成立している訳ですから、年齢(身体の衰え)は関係ないのでしょうね。

 

 話は少々離れてしまいますが、ここ3ヶ月以上、毎日のように少しずつアンディ・ハミルトン(著)、小田中裕次 (翻訳)『リー・コニッツ ジャズ・インプロヴァイザーの軌跡』(DU BOOKS)を読み続けています。とても面白い本なのですが、どうも一気に読む気にさせない本です。というのも、この本を読むと、自分がこれまで聞いてきたジャズとはいったいなんだったのだろう、という自分自身への疑問が必ず発生し、読み続けられなくなるからです。そして、次の日また怖い物見たさで本のページを開く、といった繰り返しなのです。

 

 コニッツは、再三、著者のインタビューに対して答えています。ジャズメンが練習や演奏で身につけたフレーズを組み合わせ、使い慣れた構成でジャズの即興演奏をしているミュージシャンは、それはそれでジャズにおいてはありなのだろうが、自分は気に入らない、と。コニッツは、演奏の中で、次の瞬間、次の瞬間と、常に新しいメロディを作り出そうと考えているということです。こうなると、例えば kumac が好きなハードバップの名盤と言われる演奏や奏者は、みんなジャズの重要な部分の即興演奏をしていないとも言えることになります。

 

 まあ、上記のことは極端な話として考えれば良いのでしょうが、リー・コニッツのジャズに対する自分のスタンスは、明確です。そこで、この作品を考えてみると、録音は本が出版された後で、プロデューサーがドラムのケニー・ワシントンであることから、推測するに、コニッツのインプロビゼーション対する考えを念頭に置いて、できる限りコニッツの魅力を引き出そうとして録音された作品と考えることはできないでしょうか。

 

 その理由は、一つ目、サイドメンはオーソドックな演奏に徹していること。二つ目は、コニッツのボーカルが入っていること。オーソドックな演奏は、曲のリズムとメロディーを安定に保つことで、コニッツが狙う新しいメロディーの模索をやりやすくしているのだろうと考えられます。コニッツのボーカルは、普段、コニッツが自宅で練習をしている時には、唄いながら様々なメロディーを作り出すことを行っていることから、敢えてボーカルを披露することになったのではないでしょうか。この二つとも、上記の本を読まないと kumac にはなかなか結びつかないことです。

 

 長々と、前置きを書いたが、1曲目のスタンダードナンバー「Stella By Starlight」の<コードを開いたメロディー>から始まる演奏は、コニッツの長年のスタイルです。3曲目「Darn That Dream」は、コニッツのボーカルから始まります。メロディアンスなスキャットでメロディーを奏でた後にコニッツのアルトのソロが入ります。とても、しっとりとしたソロです。突拍子もない展開にはなりません。こういう遊びとも言えるようなちょっとした余興は誰でも好きでしょうね。続く、ケニー・バロンのソロは申し分ないです。最後にコニッツがスキャットでソロを取ります。こういうバラードのゆっくりとしたテンポでは、次のメロディーが淀みなく浮かんでくるのだろうと思います。だから、結果的にストレートなメロディックな演奏になるのだろうと推測します。

 

 一曲一曲、かなり明確な意図を持って演奏・録音された作品に感じられます。今のコニッツが好きな人にはとても聴き応えがある作品に仕上がっていると思います。逆に、ケニー・バロンなどのサイドメンの演奏に期待すると、そんなに際だってはいないので大したことではないかもしれません。どうしてこいう作品に仕上がったか、ということを推測すると、とても面白いと思うのですが、どうでしょうか。

 

 直訳すると「新鮮なアルト」となるのかな、この作品のタイトルどおり今のコニッツが、沢山聴ける作品です。

 

 

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Lee Konitz『Lee Knitz nonet』

 リーコ・ニッツの9重奏団(ノネット)による作品です。録音は、1977年。参加しているミュージシャン個々について、言及する意味は特別ないと思われるので、割愛します。

 

 コニッツは、ライナーノーツ氏(田中英俊氏)によれば、このころ幾つかの9重奏団による演奏の試みを行っているようです。では、自身の演奏の多くを小編成のバンドで行っているコニッツが、ここで9重奏団を編成してアレンジを行い、演奏を試みようとした意図とは、一体どんなことでしょうか。

 

 念頭には、あのマイルス・デイビスの9重奏団の演奏による『クールの誕生』は、置かなくても良いようです。『クールの誕生』を意識してこの作品を録音したとは、とても思えないからです。リー・コニッツに郷愁とか、あのときにやり残したことを再び行いたいという欲求はなかったと思います。演奏、一つひとつに善し悪しの感情はあるのでしょうが、即興演奏を行うことに主眼を置いているコニッツにとって、過去に演奏された作品は、時間とともに消えるだけのことだと考えるのが妥当と思います。

 

 では、この作品の意図はどこにあるのか。アレンジとかアンサンブルには大きな意味はないと思います。要は、演奏を行うに当たって、より明確な枠を作りたかったのではないのでしょうか。この枠とは、端的に言ってしまえば、メロディーということになります。より簡明でわかりやすいメロディーを持った音楽を作りたかったのではないでしょうか。

 

 コニッツが意識しているのは、ギル・エバンスやスーパーサックス、サドメルオーケストラなどビーバップを継承したジャズオーケストラの動きだと思われます。デューク・エリントンやカウント・ベイシーなどのビーバップ以前のオーケストラは眼中にはないようです。

 

 穿った見方をすれば、ジャズにおける即興演奏の原点と言えるビーバップのコード進行に則った自由な演奏を行うために、ここで一度、しっかりとした原曲のメロディを堪能することをしたかったのではないでしょうか。

 

 納められている曲は、全11曲中、パーカーの曲が1曲、コニッツのオリジナル曲が3曲、タッド・ダメロンの曲が1曲、コルトレーンの曲が1曲、演奏に参加しているジミー・ネッパーの曲が1曲、ルイ・アームストロングの曲が1曲、その他3曲となっています。

 

 7曲目、ジミー・ネッパーの曲「Who You」は、とてもソウルフルなメロディラインを持ったステディな曲です。このカチッとした仕上がりの曲のテーマ演奏の後のリー・コニッツのソロは、とても素敵です。コニッツらしさ前回です。この時(今でもそうかもしれませんが)、こういう盛り上がりのある、ある種感情移入しやすいメロディとリズムを持つ曲のソロは、雰囲気を煽ろうとしがちです。しかし、コニッツのソロは、いつものしっかりとメロディーを創造する方を選びます。ブローすることは決してありません。

 

 ですから、対比なのですね。対位奏法を大がかりなバンドで実証的に行ったと言っても、よいかもしれません。方や、メロディーを多くの管楽器(管楽器奏者が6人です。)で提示して、それに対位したソロを行うという試みです。この作品での各人のソロを聴く限り、リー・コニッツだけが突出していますが、コニッツは自身のソロ演奏は極力少なめに行っているように思えます。それだけに際立つと言ってもよいかもしれません。

 

 他のソロ奏者は、いわゆるギル・エバンスのオーケストラにおいて行われるソロといったイメージのソロを取っています。良い演奏ではありますが、この作品でコニッツが意図するものとは違っていると感じざるを得ません。敢えて、コニッツの意図を体現しているのが、5曲目「Giant Step」での Ronnie Cuber とコニッツの二重奏によるソロです。二人とも予め譜面に書かれた同じ音階と音程でソロを行っています。そのメロディラインは、まさにコニッツの意図する音を具現化しています。

 

 ちょっと接近方法に慣れるまで時間を要しましたが、とても洗練された良い作品です。

 

 

 

 

 

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