Honamiさんのブログ
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大人は判ってくれない フランソワ・トリュフォー

11月はのんびりと自身の編集に取りかかり、多くの映画や本を鑑賞しようとした矢先…そうはいかないようだ。

しかし忙しいほど幸せなものはないというのは確かである。時間の大切さが身にしみる。


人生にして初のヌーヴェルバーグ作品を鑑賞し、批評する。恐れ多いにも程があるが、私自身が享受したままの分析をしたいと思う。


まず冒頭のエッフェル塔が遠い存在から近い存在となるにつれて、物語のフォーカスが適応していく場面。そこに人物は登場しないが、この演出によって物語自体を世の中→大人→子どもへと導かせてくれる。


タイトルからも推測できるが、全編を通して主に子どもの視点から描かれており、不運な出来事・大人の誤解・反抗的非行により、無邪気な一少年(ドワネル)が転落していくのだが、私にはそんなことは正直どうでもよかった。むしろドワネル少年が両親と映画に行く場面、バルザックの小説に夢中になり読みふける場面など、かすかな少年のつかの間の幸福が逆説的な皮肉を帯びたものであったことのほうが興味深かった。


またこの主人公ドワネルの表情の変化が物語とともに進行していく部分も印象的だ。ラストは全身から顔へのズームで終わるのだが、明らかに冒頭の表情と数々の難に接触した、あるいは今後の彼を追いかけたいと思わずにはいられない魅力的な表情を成している。結果的にドワネルの人生はジャン=ピエール・レオによって「二十歳の恋」、「夜霧の恋人たち」、「家庭」、「逃げ去る恋」と演じ続けられるわけだが。


もうひとつ気になったのが、俯瞰位置から撮影した学校のランニングで何人かずつが徐々に抜け出していく場面。調べてみると、「新学期・操行ゼロ」のパロディーらしい。子どもたちの無邪気さと大人への反抗精神が顕著になった名場面である。


ただ私が唯一嫌いだったのは母親の気変わりの波である。突然育児に目覚めたかと思えば、厳しくあたったりと多少わがままで都合のよい像を形成していた印象を受けた。


近代映画の基礎となったヌーヴェルバーグの作品はとても勉強になる。今度はトリュフォーのみならず、ゴダール・ヴェンダース・シャブロルなどにも手を広げていきたい。


さて、このレビューを見て笑える日は来るのだろうか…

山椒大夫 溝口健二

我々の生きている今日には、「権力」というものが必ず存在しており、その構図は今も昔も変わらない。現在だと、民主主義国家といえども我々は政治家に権力を握られているし、昔は地主と農民、将軍と家来というように安易に理解できる。その構図がいつの間にか逆転し、弱者が強者を戒めるといったハッピーエンド的に物語を終焉するというのはよくある(現在の日本映画バブルに言えること)。しかしこの「山椒大夫」という作品はそんな甘いものではない。


まず山椒大夫自身はこの物語の中心人物ではない。彼はこのストーリーの一権力者で、結果的にその地位をかつての奴婢に崩壊せしめられる脇役的存在。


つまりここで溝口、あるいは作者森鴎外は「権力のはかなさ」を嘆いているのである。これは上記に述べた山椒大夫の動向からでなく、主人公の厨子王(睦若)の行く末から推測できる。「山椒大夫」というのはあくまでも伏線なのだ。


厨子王は妹の安寿姫の助けにより強制労働場から脱出し、国分寺の力を借りて京へ上り、高官だった亡き父の息子ということもあって山椒大夫よりも強固な権力を掌握した。そして自分たちを苦しめ続けた山椒大夫への報復を行い、人々は幸せになったとさ、おしまい……では無論ない。


なぜならばこの作品の軸が厨子王の家族の崩壊にあるからである。兄を逃がしたことで自らを犠牲にした安寿姫。父に会いに行く道すがら、人買いにだまされ子どもたちと離れ離れになり、佐渡で売女として不当な扱いを受け続けた母。そして朝廷の意に反しながらも、困窮する農民を救おうとしたがために左遷されてしまった父。厨子王が権力を手にし、山椒大夫を成敗しても、生きて残ったのは母だけ。


特にラスト手前の妹の死を悟った場面とラストの母との再会の場面は圧巻である。厨子王が待ち望んだ理想と、家族の崩壊という現実が歪曲し、物語の残酷さを引き立たせている。いくら権力があろうとも人間はうまくいかないのである。ラストのカメラアングルで、老いぼれた漁師(?)をわざと移りこませたのも、皮相的な雰囲気を作り出す一種の技法である。


フィルムと古典が一体となって生み出す世の条理というものを、この作品を通して考えさせられた。次回はフランソワ・トリュフォーの「大人は判ってくれない」を取り上げたい。



「二十四の瞳」 木下恵介

先週は非常に忙しい日々が続き、かつ多難であった。自身の映画撮影も無事終わり、時間を見つけては編集作業をやっている。


過去のことはさておき、今日は映画「二十四の瞳」をレビューしたいと思う。


監督:木下恵介


木下作品を見るのは初めてだったため、彼の有名作品から導入しようと思い今回選んだ。


原作は壺井栄の同名小説。徳島県の小豆島を舞台に、一人の親任女教師と、十二人の幼い子どもたちが織りなす物語だが、戦前後の日本の歴史を背景として、その波に飲まれそれぞれの運命を定められていく子どもたちの姿が、非常に印象的である。


またその「弱者」ともいえる子どもたちを温かく見守り続けながらも、同じく時代の波に自らも飲まれていく大石先生演じる高峰秀子のホットかつエレジーな存在感も言うまでもない。


反戦的な要素を含みつつも、それを全面的にメッセージとして提示するのでなく、それらを潜めつつ我々の心に届けてくれる部分にこの監督の才能はある。象徴的なのは2人の少年が卒業後の今後を大石先生と語り合っている場面である。


「軍人さんよりも米屋さんのほうが好き」


この言葉にこの映画の方向性を感じるとともに、当時の日本が私の周囲に広がった。

戦闘シーンのない映画ではあるが、緊迫的・絶望的なフレーズである。


高峰秀子は時間軸に沿って演じ分けているし、子どもたちの徹底した成長過程(幼少時代の子どもと小学校時代・成人後子どもの顔がそっくり)からして、感情移入の入れやすい作品であった。


今後木下作品は「カルメン故郷に帰る」・「細雪」等を観てみたい。