「コミュニケーションって、なに。」

 

 

興味を持つこと。

 

コミュニケーションを図ろうとすることがコミュニケーション。

 

目的であって、手段ではない。

 

関わり方は変えることができる。

 

思いやりとか。

 

相手のポジションを動かすこと。

 

気持ちを動かすこと。

 

様々なことを聞いたり読んだり考えたりしてきた。

 

 

 

コミュニケーションって、結局何?って話を、ただひたすらにつらつらと書きなぐりたくなったので、今回は、そういう回にしたいと思います。

 

 

周りは、だんだんと大学三年に上がり、早い人だと、もうすでにサマーインターン等に向けて就活を始めている人も少なくはない現状になってきました。

 

 

そこで、とことなく僕もいくつかの説明会やセミナーに参加してみて、言われていたこととして。

 

とにかく、一番は、

コミュニケーション能力を身につけてきてほしいと。

 

今の学生はなぜだか、弱い人、できない人が多い。と。

 

耳タコレベルで、めっちゃ言われていました。

 

 

で、コミュ力、コミュ力って散々いうけど、実際そいつは何者で、何をしたら身につくもので、何のために必要なのか、納得のいく話をしてくれる人は、ごく少数のしっかり学生目線で考えてくれている経営者の方ぐらいだったなと。。

 

 

また、僕は、先行は医療界隈にいることで、所属する研究所では、先輩方にインタビューをしにいって、就活に役立つ、学生生活に役立つWEBメディアを運営したりしているのですが。

 

そこで、

「学生生活に身につけておいてほしいことは何ですか?」

という質問で答えられるのも。。。

 

そう、コミュニケーション能力でした。

 

最悪、知識よりも、これさえ身につけてきてもらえれば、何とかなる。逆に、これがなくて、知識ばかりある人は、だいぶ苦労するし、手がかかる。できれば、自ら行ってほしいと。

 

 

謎すぎて謎すぎて謎すぎるんですよ。

 

 

会うたび会う人が、コミュ力コミュ力ていうんですね。

 

不思議に思いませんか。

 

どんだけ好きなんだよって。

 

コミュ力中毒やん、って。

 

 

で、その人にどうやったら身につくのか聞いてみたところ。

 

接客業をしっかりやってくれていれば、

自ずと身につくと思う。

 

だとか、

 

日頃から、人と話すことを心がける。

 

だとか、

 

ボランティアをする。

 

だとか。。

 

 

なんか違うんですよね。

 

で、、、

 

って話なんですよ。

 

 

で、そこで、何をどうやって時間を過ごしたら、

そのコミュ力とやらを得ることができるのか。

 

 

そして、なぜ、それが身につくと言えるのか。

 

そこまで、考えて、話をしてくれる人がいない。

 

 

だって、そもそも、ほとんどの大学生は、逆に接客やったことない方が、珍しいほどに、みんな飲食店等で、バイトやってるんすよ。

 

 

でも、それでも、同じ時期に就活して、面接したら、同じ経歴にもかかわらず、コミュ力とやらに差が出るって、おかしいと思わないんですかね。

 

 

必要だってことはわかってても、なぜそれがどのように得ることができて、何のために必要なのか。そして、ほんとうん、自分にふさわしい職業なのか。っていうところまで、考える必要があると、僕は思うんです。

 

 

どうでしょうか。

 

コミュニケーションには、

自分なりの方法が、各々あるはずです。

 

 

仕事は、その自分の個性にあった職業を選ぶのが最も誰もが幸せだと僕は考えています。

 

 

そこで、本当にやりたくて、人を喜ばせたい、人のためになりたいって思う人は、自ずと、思いやりをもつし、どうしたら、この人はもっと安心してくれるか、どうしたら、楽になるのか、、自然と考えるようになりませんか。

 

 

というか、考えます。

 

そしたら、勝手に動く仕組みになっているはずです。

 

 

 

僕の今ある結論。

 

コミュニケーションを図ろうと思うことが、

コミュニケーションである。

 

 

だから、もしコミュニケーションがうまく取れないと言われてしまっている環境に自分がいたとしたら。

 

それは、コミュニケーションを取ろうと思えない環境に自分がいる。

 

自分がコミュニケーションを必要とする、とりたいって思う環境はどこなのか、一度、考え直してもいいと思います。

 

 

コトバンクから引用します。

 

コミュニケーション
communication

 

言語,身ぶり,画像などの物質的記号媒介手段とした精神的交流のこと。語源はラテン語で「分かち合う」を意味する communicare。歴史的には物質的記号は初期の身ぶり,叫びなどの直接的で無反省な状態から,明確な言語などの普遍的かつ間接的な状態へと発達した。コミュニケーションの過程は,精神的内容を物質的に表現する送り出しの段階,受け手によって受容される段階の2段階から成る。また,その内容は分析的に知的理解のためのものと,情緒的な伝播を目指すものとに分けられる。

 

精神的交流、分かち合うこと。

と書いあります。

 

これを定義とすると。

 

そもそも精神的交流がしたいと思わないからには、

コミュニケーションが行われているとは言えません。

 

当然、分かち合うことも必要ありません。

 

 

とすると、普段のコミュニケーションと、仕事、ビジネスの場で用いるコミュニケーションという言葉の定義に違和感を覚えます。

 

 

ビジネスで謳われるコミュニケーションは、本当にコミュニケーションなのか。どこか、勘違いをして、漠然としてわかりやすいだろうと、コミュニケーションという大雑把な言葉を使い古してしまったのではないか。

 

 

本来のコミュニケーションとは何なのか。考えるまでもなく、当たり前に、今自分が置かれる状況から、人と関係することがら全てを、コミュニケーションと呼んでしまっているのではなかろうか。

 

 

その真偽は依然としないが、、確かに、普段の生活で行われている、ましてや、学生間で行われているコミュニケーションとは、様子が違ったものとして、捉えざるを得ないだろう。

 

 

となった時、仕事、職場で求められる、言われてしまう、コミュ力とは、一体なんのか。そして、これは、コミュニケーションとは言わないのではないのか。

 

 

というのが僕の考えることです。

 

 

あくまで、仕事のために行われる、

精神的交流は、一方的なもののように思います。

 

 

社員とお客さんといった利害関係がある中で行われる。

 

部下と上司といった軋轢がある中で行われる。

 

 

それぞれ、心から精神的交流をしたいと思う関係になるまでには、人ぞれぞれかかる時間が異なります。

 

また、この場合は、どちらかが、コミュニケーションを取らせたい。といった構図になってしまう。

 

 

それが、ちょっとおかしなことに思う。

 

 

だから、まずは、お互いをフラットに考える、思える環境に属していなければ、本当にコミュニケーションは行うことができない。

 

僕は、そう思うんです。

 

そんなにコミュニケーションは偉い人なんですか。

 

コミュニケーションって何なんですか。

 

それをさぞかし尊敬する人物のようにいっている人がいたら。

 

 

囁いてあげて。

 

 

そういっているあなたは、コミュニケーション様とコミュニケーション取れているのですか、と。

 

 

僕には、コミュ力が大切っていっている人は、あたかも自分にコミュ力がないことをおおっ広げにしているようにしか見えない。

 

 

どうなんだろうかね。

 

何がしたいんだろうね。

 

 

コミュニケーションって、

手段じゃなくて、目的だと思うんだ。

 

 

どうだろうか。

 

 

この人たちは、僕には、コミュニケーションというものは、手段としてみているようにしか見えないのさ。

 

 

多分、それに溺れて僕らも、何が何だかわからず慌てふためき息継ぎができないでいる現象が、蔓延しているの。

 

 

だから、コミュ力、コミュ力つけなきゃ、、。

 

って、言われてわかっているつもりで、、

 

就職していくんだ。

 

 

コミュ力を指標にするのは、直ちにやめてもらいたい。

 

おかしなことだから。

 

それは、測れるものではないから。

 

 

 

ダメだ。

まだ、僕も溺れている中にある。。

 

もうちょっと、

じっくり、この課題に関しては熟考していこう。。

 

 

あなたにとってのコミュニケーション。

はたまた、コミュニケーションに変わる何か。

 

 

教えてください。。

 

 

就活コミュ力注意報発令中です。

 

 

一人でも、こんなことで悩む人を。

 

 

溺れてしまっている人を。

 

陸へと、連れ戻さなければ。。

 

 

そして、僕も早く岸へ上らなければ、、

 

 

 

また、リベンジする。。

 

 

コミュ力症候群よ、、

 

 

暴いてやる。

 

 

 

Kuma.