きもの文化検定合格者表彰式及び記念パーティーの後は親戚の家(ブログで親しくしていただいている方のリア友の実家というねニヤリ)に寄った後、夜は大阪上本町に宿をとりました。


翌朝はタートルとジーンズの上に着物と半幅帯をして、お墓参りをし、故郷の散歩をしました。


源聖寺坂にて


着物は石下あたりの捺染の結城に首里織の半幅帯。

和洋折衷コーデは5分で脱ぎ着出来て便利ですね。



大阪は木のない都だといはれてゐるが、しかし私の幼時の記憶は不思議に木と結びついてゐる。

 それは生国魂いくたま神社の境内の、さんがんでゐるといはれてこはくて近寄れなかつたくすの老木であつたり、北向八幡の境内の蓮池にはまつた時に濡れた着物を干した銀杏いちやうの木であつたり、中寺町のお寺の境内の蝉の色を隠した松の老木であつたり、源聖寺坂げんしやうじざか口繩坂くちなはざか

を緑の色で覆うてゐた木々であつたり――私はけつして木のない都で育つたわけではなかつた。大阪はすくなくとも私にとつては木のない都ではなかつたのである。

 試みに、千日前界隈かいわいの見晴らしの利く建物の上から、はるか東の方を、北より順に高津かうづの高台、生玉いくたまの高台、夕陽丘の高台と見て行けば、何百年の昔からの静けさをしんと底にたたへた鬱蒼うつそう

たる緑の色が、煙と埃に濁つた大気の中になほ失はれずにそこにあることがうなづかれよう。


                       「木の都」織田作之助 ( 昭和19年)より



生国魂神社。官幣大社で、神仏習合の時代には10ものお寺を従えていました。
ブロガーのおかんさんが月釜で来られている神社です。


本殿の横の末社。子どもの頃、本殿の裏から夕陽を見るととても綺麗でしたが、いつしか柵がされて入れなくなりました。


末社の北向八幡。


織田作之助の像があります。夫婦善哉という作品が有名です。
ちなみに私の小学校と高校の先輩です。


梅が綺麗に咲いていました。


上町台地の崖?断層?のある場所で公園になっています。ここから見下ろした下の町は国立文楽劇場や草履の岩佐さんなど、着物ブロガーさんに馴染みのあるところです。
子どもの頃は森だったのですが、いつの間にか見通しの良い公園になっていました。

もう少し南側には、夕陽丘と呼ばれるところがあります。平安時代から熊野詣の途中で四天王寺にお参りし、そこから浄土があるという夕陽を拝む信仰がありました。また藤原家隆は夕陽を見るために晩年そこに庵を建てて住んだそうです。
(参考までに。北側に歩いて行くと大阪城があります)


高津神社です。この辺りのどこかに高津宮があり、仁徳天皇が国見をして、民のかまどから煙が上っていないのを見て三年間税金を取らなかったそうです。




高津神社の舞台にて。夏祭りや桜の花見に来たのが良い思い出です。

娘を里帰り出産する時に息子の七五三をこちらでお願いしたときに、たまたま機会が合ったのか雅楽の生演奏をしていただき、ビックリ感激しました。

井原西鶴、近松門左衛門、梶井基次郎(「檸檬」の作者)、山崎豊子のお墓なども近くにあります。




生駒山が望めます。


ついでながら、吉本の大物芸人さんにご近所さんで幼稚園から中学校の先輩にあたる方がおられます。幼稚園で一年間は確か同じ組だったかもしれなくて、小学校でも集団下校でご一緒しました。この方にもこれらの場所は馴染みのある場所でしょう。





おまけ


京都から大阪に行くときに寄った豊中の親戚の家のあたりも歴史的に興味深いところでした。

阪急神戸線の神崎川から猪名川にかけて、後鳥羽上皇の寵姫の荘園がありました。その領主を地頭がないがしろにし、それが承久の乱の発端のひとつとなったのだそうです。



椋橋総社。後鳥羽上皇の寵姫であった白拍子亀菊をまつる天満宮がこの神社の末社にあるとのことでした。



お読みいただきありがとうございます。関西旅行編、後一回続きます。