久しぶりに筆を取りました。

筆を取るにも、見極めが必要です。何でも書けば書けるのですが、それが偽りであれば喜ぶ存在に隙を与えてしまうので、審神者が必要でした。

今日のテーマ「神とは」は、ひじょうに難しい内容です。見る方にとっては、腹立たしい内容かもしれません。でも裏を返せば、長年刷り込まれてきたことが否定された時に腹が立ったり、責めたりする行為を起こすことは、真の教えではないということだからではないでしょうか。

勿論、世の中にはいろんな教え、考えを信じている方がおられ、それぞれの考えを否定するものではありません。

私が信じたこのことも、その中の一つだということです。ですから、この話を信じろとか、唯一の真実だということではありません。私が生きてきた人生の中で、これこそ私がしっくりいくことであり、長年追い求めてきた真実(私にとって)だということです。

私は、仏教徒の家に生まれました。しかし、母は天理教徒であり、私も仏教の教え、天理教の教えなどを聞いてきました。そればかりではなく、父も母も若い時にキリスト教徒の学校に通ったり、日曜学校に行っていたり、キリスト教の教えにも触れていたのです。そして私は、キリスト教の学校に通い、結婚を機にクリスチャンになりました。それからは、クリスチャンとして一神教を学び、それを信じてきました。

私が、50歳を過ぎたころから何か心の中に現在の宗教について不信感、物足りなさなどを感じるようになり、いろいろな神社に足が向くようになっていました。勿論、私には霊感が有る訳でもなく、ただそこに心の安らぎを感じていました。一方私の妻は、生まれながらのキリスト教であり、他の宗教には全く興味などありませんでした。

しかし、私と共に神社を訪問する度にある種の霊感が強くなっていきました。そして、一神教的な考え方から、日本の多神教的な感覚を認めるようになってきました。

このころから私たちは、神道の神と言われる方々に導かれながら様々な神社を訪問するようになっていました。

私が現在の「神」について分かったのは、生まれ故郷に帰って来た時からです。現在では、私は宗教というものから離れています。宗教というのは、私にとって人間が創った組織体であり、人間の都合によって教えを変え、人々にその考えを刷り込んできたものだということです。宗教がなくても「神」を信じて生きることができる。日本人は、自然、森羅万象のなかに神をみて感謝をし、和をもって生きていた。しかし、そこに教えや掟などなく、宗教といわれるものはありませんでした。

今の宗教は、神を自分の外にみて、それを崇め、生贄を手向け、他の宗教との間に分離をもたらしています。その教えこそ長年刷り込まれてきた善という名の悪なのです。

私は、この教えから解放され、自由を感じています。

人間とは、靈体、肉体、神体の三位一体であり、先ず私たちのは靈体、この宇宙から生まれ、この肉体はこの大地から与えられ、靈体は、人間として生きるためにこの体を大地から借りて生きているのです。更にその大地である地球から生きる糧を頂き、また、宇宙からのエネルギーによって生きているのです。私たちの靈体は宇宙という神の分御靈であり、体は地球ガイヤという神の分身であり、それ故私たちも神の一部であり、宇宙、星、太陽、月、地球、全ての生きとし生けるもの、森羅万象が私たちが感謝という祈りを捧げる対象なのです。また、私たちの体に対しても感謝をする生き方こそ、私たちの生き方だと信じるようになりました。

この生き方こそ、縄文時代にあった真の日本人の生き方だと。それ故、縄文時代には争いなどありませんでした。

私の「神」とは、私たちを生かしてくれる全てなのです。そう考えるとき、全てが愛する対象として感謝し、互いに愛し合い、長い間刷り込まれてきた教えからの解放と新しい世界の始まりとなります。

この考えは、あるシャーマン(神人)から聞いたことから分かったことであることをお伝えして終わりたいと思います。