みなさんおはようございます。
今日はこのお話をご紹介します。
1159年(平治元年)に源義朝の子として生まれた義経。生まれてすぐに平治の乱で父が敗死したため鞍馬寺に預けられるが、僧になることを拒否して、藤原秀衡(ふじわらのひでひら)を頼り、奥州に下った。
その後、1180年(治承4年)に、兄の源頼朝が打倒平氏の兵を挙げると、源義経もこれに参戦。一ノ谷の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いを制し、平氏滅亡の最大の功労者となった。
しかし、勝手に朝廷から官位を受けたことから、頼朝の嫉妬を買い、対立するようになる。
追い詰められた義経は、かつて世話になった奥州の藤原秀衡を頼るが、直後に秀衡は老齢のため死亡してしまう。1189年(文治5年)、秀衡の息子、泰衡は、頼朝からの圧力に耐えかねて、義経が滞在していた衣川館を襲撃。義経は妻子とともに自害した。
史実に基づいた義経の一生はここまで。義経=チンギス・ハーン説はこのあとも続く。
実は義経は衣川では死んでおらず、北に逃れて蝦夷に達し、大陸に渡ってモンゴル帝国を築いたというのだ。