『橋下徹―突出した異能者の源流』の連載3


第一章 橋下家は居つきサンカの系統か

「週刊文春」が報じた橋下家先祖の出身地「関西の山裾の被差別部落」とは

橋下徹は一九六九年六月、東京都渋谷区に生まれたとされる。徹が生まれたときに、橋下の読み方を「はしした」から「はしもと」と改称したという。徹の祖父の出身地である橋下家の集落では、橋下をそのまま名乗っている家のほうが少ない。橋本とか、橋元とか、森下とか、松下とかに改称している。

橋下徹の近親者のネガティヴな情報があきらかになったが、橋下家の先祖の情報が欠如している。祖父母とさらにその祖先の情報がほとんどない。祖父母の出身地が正確な固有名詞で語られたことはない。以下の「週刊文春」の記事でもかなりぼかされた表現になっている。インターネット上でも突き止められていない。それは隠さなければならない事情があったからである。

しかし、それは「被差別部落」に対する偏見があるからであり、筆者はこの偏見を取り除けば、決して卑下するものではないどころか、むしろ誇りを持つべきものであると考える。問題のあるのは、「被差別部落」のほうではなく、それを強制的に作り上げ、それを侮蔑し、差別してきたほうなのである。私は「被差別部落」というとらえ方自体にも偏見あるように思われるので、その歴史的背景も、できるだけ説明する必要があるだろう。「被差別部落」はもともとから差別されるべき存在ではなく、意図的に差別される存在に追い込まれたにすぎないのである。

「週刊文春」二〇一一年一一月三日号は、橋下の先祖の出自について、次のように述べている。

「スキー場にほど近い、とある関西の山裾。大阪府庁から約百五十キロ離れた急斜面にある寒村は、車一台がギリギリ通れる橋以外は周囲のムラから隔絶されている。住井すゑの『橋のない川』を彷彿とさせる風景を残す被差別部落は、徹の父親である橋下之峰の出身地だ。集落に残る家々は、主なき家ばかり。とぼとぼ歩いていたジャージ姿の老人がいう。

『ここらじゃ仕事がないから、みんな大阪や東京に出てしもた。橋下という家は昔はようけあったけどな。ムラに残っているのは年寄りばっかりや』」

「週刊文春」も「とある関西の山裾」などとそこを特定できないようにぼかしている。この集落は橋下の父親の出身地というよりは、祖父の出身地としたほうが、正確であろうか。父親は宍粟市で生まれたのか、大阪に移ってから生まれたのか、祖父が大阪に移ったのがいつなのかの確定的な情報はない。

橋下家先祖の出身地は兵庫県北西部の宍粟市

この「とある関西の山裾」「大阪府庁から約百五十キロ離れた急斜面にある寒村」とは、中国山地の真っただ中、兵庫県の中西部の宍粟市にある。標高五〇〇メートルを超える高原が広がり、ほとんどが山林地帯である。千メートルを超える山も三峰ある。昔は宍粟郡と呼ばれ、瀬戸内海に流れ着く揖保(いぼ)川の上流、千種(ちくさ)川の上流に当たっている。たしかにスキー場もあり、キャンプ場もあり、温泉もある。

昔から、タタラによる鉄産業、森林業が盛んであったが、いずれも衰退し、第三次産業が五〇パーセントを超えている。宍粟市の人口は三〇年前は五万人近くあったが、現在は四万人を切ってしまった。交通の便がよいとはいえず、鉄道の駅が一つもない。高速バスが中国自動車道などを利用して、京都、大阪、神戸、姫路からの便があり、市内を循環バスが通っている。が、この循環バスさえ回らない地域も少なくない。

宍粟市には橋下一族の集落を含めて、いわゆる「被差別部落」といわれる集落が幾つか存在する。彼らの従事した仕事は、斃牛馬の処理、革加工、狩猟、川魚漁、薬草採り、森林伐採、炭焼き、竹細工、木工業(木地師)、牛馬、河船による運送、治水工事、土木工事などであろう。畑作、稲作にも従事していた。ただし、タタラ鉱山は差別意識が強く、彼らが働くことを認めなかったようである。

このなかで、野生動物や牛馬の解体をして毛皮、皮革、干肉を製造する仕事が盛んなところはカワタ村と呼ばれていた。この村のことを描いた稲田耕一氏の『かわた村は大騒ぎ―聞きがき・部落の生活史』((部落問題研究所))という本がある。これによれば、明治期には宍粟郡には一五〇〇頭余りの牛がいたとされている。明治維新によって、カワタ村の斃牛馬の独占的処理権は失われたが、皮の生産は続けられた。

しかし、林業の衰退、鉱山、ダム、治水工事による河川生態系の破壊、ビニール、プラスチック製品の普及、モータリゼーションの発展によって、明治、大正、昭和、平成の時代を通じて、サンカやカワタの民の仕事が激減していった。

橋下家は祖父の時代に宍粟から大阪に移住した

前記「週刊文春」の記事は続ける。

「山裾の寒村を離れ、徹の父親らが居ついた先は大阪府八尾市安中地区にある同和地区だった。之峰は、円吉とナツ夫婦の二男四女の長男として生まれた。生きていれば七十七歳になる。

之峰、博焏兄弟の妹が語る。

『父の出身地がその寒村なんです。私は八尾で生まれたけど、兄は多分向こうで生まれていると思う。私とは十歳以上離れていて、私が小学生のころ兄は三十歳近くで、もう東京にいてましたんでね。あまり記憶はないんです』」

この「寒村」というのは、筆者の調査によれば、現在の兵庫県西部、岡山県との境にある宍粟市千種町に間違いなかろう。祖父と父親の出身地、千種町のA地区(集落に迷惑がかからないようにこのように表現しておく)では、現在でも橋下という苗字を残しているのは少なくなり、橋元、橋本に変えている人が多い。都会へ移り住んだ人も橋本と変えた人が多い。

橋下一家は之峰の父親円吉、母親ナツ夫婦とともに、宍粟市から大阪府八尾市安中に移り住んだ。徹の父親之峰(ゆきみね)の生まれる前だと思われるが、まだ断定はできない。之峰は円吉、ナツ夫婦の二男四女長男として、大阪府八尾市の安中地区で一九三四年に生まれているだろう。徹の祖父の円吉夫婦と之峰の墓は、大阪府八尾市の安中地区にある。橋下集落の人々に電話取材しても、警戒しているのか、祖父夫婦については知らないと答える人が多い。橋下一家は宍粟市の故郷との関係を断ってしまったのか。

宍粟市はサンカの聖地であった

この地方はもともと宍粟郡千種村といい、それが千種町になり、同郡の山崎町、波賀町、一宮町、宍粟町が合併して宍粟市になった。この地域はサンカとか、部落民と呼ばれる人々が多かった。この両方の言葉が混同して使われていることが多かった。サンカの人々の生業は竹細工、木地、川魚漁が多かっただろう。部落の人々の生業は家畜解体、皮革製造が多かった。小作農にも従事する部落民も多かった。想像するに、この地方でタタラ製鉄が盛んになって、山と川の生態系が破壊され、サンカの人々は、次第にセブリ地に居つくようになって、部落民と呼ばれるようになったのではないか。

千種川の最上流には、木地山と呼ばれる山があるが、菊池山哉著の『全国日本部落史料』(日本シェル出版)では宍粟郡千種村には木地屋が三十戸ばかりいたという。この木地屋と橋下集落が関係あったかどうかはわからない。木地屋とは奥山で手細工物を造る人ことである。

また、昭和四十一年に出版された菊池山哉著『特殊部落の研究』(批評社)では宍粟郡の部落数は一一で戸数は六九一戸であった。この時代になると農業に従事する人が多かったようである。播磨地域の明石郡、加古郡、美囊(みのう)郡、加東郡などでは、農業のほかに依然として、竹細工、わら細工も副業として行われていた。昔は山陽地域では、茶道で使われる茶筅(ちゃせん)造りが盛んであったようである。

共同通信社の記者であった筒井功は『サンカの起源』(河出書房新社)の中で、宍粟市の一宮町、波賀町で川魚漁をしていたサンカについての話しを聞いて、そのことを簡単に記している。

「週刊文春」の記事のうち「スキー場にほど近い」とあるが、宍粟市の北西部の千種町の西河内地区には、ちくさ高原ネイチャーランドというスキー場がある。A地区とはかなり距離がある。「大阪府庁から約百五十キロ離れた急斜面にある寒村」とあるが、確かに約百三十キロは離れている。

町の中心部を国道七二号線が走り、それと並行して千種川が流れており、その西側の平地に水田があり、そこから急斜面の丘陵が続いている。その裾地に橋下集落がある。三〇軒ほどの集落だが、「週刊文春」が書いているように、空き家が多い。ほとんどが老人である。千種川が氾濫しても影響が少ない傾斜地に家が張り付いている。立地条件としては、昔のセブリ地と同じである。

『サンカ学叢書 第2巻 サンカ・廻遊する職能民』(批評社)によれば、サンカの人々がセブリバ(居住地)として選ぶところは、生活取水に便利な湧水ないしは小河川に面する、日当たりのよい舌状大地、外部から見えにくい緩傾斜地を選択するとしているが、概ねこの集落はこの記述に適合している。

鷹野弥三郎の『山窩の生活』(明石書店 原著は大正元年、一九一二年に出されている)によれば、彼は宍粟郡においてサンカの夫婦家族と釣魚のことで親しくなり、彼らとの交流について述べている。霜の降りる時期に妻が出産したとき、赤子を川の流水で産湯洗いをし、産後もすぐに働いていた、と報告している。この地方はサンカの人々が多く、サンカの聖地といってもいいところであった。

独立自由人、独立自然人としてのサンカ

柳田國男の弟子とされる後藤興善は『又鬼(マタギ)と山窩』(批評社)の中で、サンカの生態について、簡潔にまとめている(筆者によって現代表記に改められている)。

「彼等は、定住して農を業とせず、山裾や河原に小屋を掛け、テントを張って、箕、籠、簓(ささら)、風車などの竹細工をなし、下駄或いは棕櫚箒(しゅろほうき)などを作り、河川の魚を漁し、山の自然薯を掘り、猟もし、その手細工品や獲物を近くの村や町に売りさばいて生活をしている。彼等と同系の生活者は、今日定住している者の中にも多く見られる。全国的にも散在しているともいえよう。手業に器用な彼等が、茶筌(せん)師、箴(はり)かき、さては木地屋、鋳物屋などの縁者であることは、いうまでもなかろう」

「メンメシノギとは、各自が各自の独裁独立自由の生活をすることである。誰にも支配されず、誰の干渉も受けず、自己の思うままの生活をして、しかも山窩の仲間として立派にやっていく。これが彼等の生活のモットーである。自主的に自由に生活してしかも則(のり)を越えない、これは完全なアナーキストである。放浪のアナーキストたる山窩は、人の干渉を極度にきらう。この間の彼等の真理を理解し得る者は、彼等に親分がないことをよく了解し得るであろう」  

サンカの人々は、河川に沿って移動し、天幕小屋などの簡易住居を造り、竹細工や木工品や革製品や金属加工品を造り、川魚、小動物、山菜などを取って穀物や野菜などと交換して生活を営んでいた。彼らは米を食べずにムギ(うどん)を主食のように食べた。このために彼らは極めて健康であり、一族の結束と相互扶助と男女の交わり(夫婦道)を大切にした。ふいごを使った簡単な鍋釜などの鋳造も行なっていたのである。

彼らはこの地方ではサンカとかオゲと呼ばれた。彼らは一か所に定住しない。一か所で農業をしない。住民登録もしない。倭国日本にも組み込まれていない。出産も医療も葬祭も他人の世話にならず、自ら取り仕切った。彼らは誇り高き自由人、自然人であった。彼らは奴隷化された被差別部落民とは一線を画していた。彼らはむしろ、土地に縛られ、国に縛られ、組織に縛られ、職に縛られ、学校に縛られる「文明人」を軽蔑していた。自分たちこそ純粋な日本人という誇りを持っていた。自由に生きられる自分たちの生活に誇りを持っていた。彼らはもともとは「被差別部落民」としてさげすまれる存在ではなかった。橋下集落の人々の遠い先祖は、カワタの民になる前、このような生活をしていただろう。

サンカは心身ともに健康であった

清水精一は『大地に生きる』(河出書房新社)の中で、大阪市天王寺・蜜柑山(みかんやま)のサンカの生活を取材し、彼らが医者や病院や西洋医学にまったくたよらず、自然医学といってもよい方法で、自分の手で病気を治す様子を描いている。彼等はすぐれた自然人であることがわかる。

「病気、発熱は草根木皮で治療する。発熱の時は蚯蚓(みみず)を煎じて飲む。咳の出たときは蜜柑の皮など柑橘類(かんきつるい)の皮を煎じて飲む。とくに面白く感じるのは、その草根木皮が春夏秋冬、皆その時々のものが、その季節に起こり易い病気の治療剤になっている」

彼等サンカは実に慈悲にあふれていた。彼等はらい病(ハンセン氏病)患者や重病者や障害者を積極的に受け入れて、一緒に行動した。後藤興善は『又鬼(マタギ)と山窩』にいう。「山窩は救われないらい病患者を哀れみ、重患の者を彼等のセブリの中に置き、よくいたわってやるという」「どういう気持ちでラコ(らい病患者)をいたわるかと(サンカ)に聞くと、『ああいう可哀そうなもんに善根を施すと、きっとええ報いがあります。そら妙だっせ』という」と。そして後藤は言う。「山窩こそ温情の救世主なのである」と。強い者にはしたがわず、弱い者はたすけてやるというサンカの人々の爪の垢でも煎じて飲ませてやりたい人がいる。

筆者は数十冊にのぼるサンカ関係の本を読破したが、そこに登場するサンカの人々には暗さなどまったくない、くったくのない笑顔をみせてくれていた。彼らは心身ともに健康であった。

サンカの人々は日本列島の歴史の中で重要な役割を果たした

サンカの人々は、決して原始的で未開の孤立した民ではなく、河の流域、地方ごとのネットワーク、相互扶助組織が確立しており、彼らが団結して行動すれば、時の権力さえ脅威の存在となった。それどころか、八切止夫のサンカ説によれば、織田信長、豊臣秀吉など、天下を取った最高権力者、楠木正成、新田義貞、前田利家、斉藤道三などの有力な武将など、さらには国定忠治、江戸浅草の弾左衛門、忍びの者、有名な歌舞伎役者などは、サンカ出身者であり、彼らは多彩で優秀な人材を輩出してきたとしている。現代でも田中角栄、中曽根康弘、小泉純一郎など、総理大臣経験者の中にもサンカ出身者がいるという説もあるが、疑問が残る。経済界でも、建設業、運輸業、金融業にサンカ出身者が多い。芸能界にも多いようである。

木下藤吉郎秀吉(豊臣秀吉)の父親は、因幡(いなば)のサンカであり、箕作り、ササラ削り、茶筅(ちゃせん)作りのみならず、忍びの術にもたけていた。秀吉もサンカの忍びを使って情報収集、後方撹乱などをしていた。彼は権力を握ると全国のサンカを懐柔、利用しようとしたが、これに従わないものはことごとく殺していった。彼はサンカ出身であることをさとられないためにもサンカ殺しを徹底した。秀吉の刀狩りはサンカの武装解除という側面もあった。

三角寛著『サンカ資料集』(母念寺出版)の「全国サンカ分布表」によれば、播磨国(兵庫県)のセブリ(天幕)数は、明治四三年には六四九で、武蔵国(東京・埼玉)に次いで全国第二位、昭和二四年でも六四で、同じく武蔵国についで二位であった。サンカでありながら一般社会へ融け込んでいく融け込み戸数も武蔵国についで、昭和二四年で一三六三人で武蔵国、相模国に次いで多かった。兵庫県は有数のサンカの活動舞台であり、既述のように揖保川、千種川流域は特に多かった。

橋下家は居つきサンカの先住民系である

橋下集落を見てみる。車一台がギリギリ通れるふたつの橋以外は、周囲のムラから隔絶されている。宍粟市のこの地域はなぜ、「被差別部落」と呼ばれるのであろうか。橋下家はなぜ、部落出身とされたのであろうか。

サンカはセブリ地域から都会へ移り住んでも、サンカ社会との関係を持ち続けている場合が多い。これらの人々はトケコミと言われた。しかし、戸籍制度、義務教育制度への強制的な編入、警察組織による弾圧、太平洋戦争への動員、戦後の住民登録の強制などによってと、サンカ社会とトケコミのつながりが断絶するようになり、サンカ社会自体が消滅しはじめた。現在、橋下集落のある地域には橋下という苗字は数えるほどしかいない。宍粟市の電話帳をみると、橋下姓はわずか二軒であるが、橋元姓は一四件、橋本姓は八六件もある。彼等の多くは千種町のカワタ村と関係があったと考えられる。

現在、宍粟市にあたる地帯は、昔からサンカとよばれる人々の活動舞台であった。サンカや部落の発生起源は、中世とか室町時代とか幕末明治期とかの諸説があるが、筆者は古代にまでさかのぼると考える。サンカの人々は、日本列島の最も古い先住民の人々であり、国栖(畿内大和)とか土蜘蛛(関東から西日本)とか佐伯とか呼ばれていた人々であった。彼ら国家とか階級とか知らない、自然の中で自由に生きる民であった。野性的で自然の理にかなった奔放な生活をしていた。この列島の権力を握った倭国大和朝廷は、これらの人々をせん滅したり、奴隷化したり、奥地へ追いつめていった。奴隷になることを拒否した人々は、山奥や海岸線や河原に逃げて抵抗を続けた。彼らがサンカの祖先であった。

橋下という名前もサンカと関係がある 

橋下という名前も「はしした」という名前を「はしもと」と変えたのは、父親も母親も自分だと主張している。母親は「あの子が生まれた時点で、向こう(橋下家の人々)との因縁を断ち切るつもりで、ハシシタ姓をハシモトと変えたんです。向こうの親たち(橋下徹の祖父母)は、反対しました。けど、橋の下を歩むようなイメージの苗字はどうか。この子は、橋のたもとを注意深く生きていくように、と願って変えました。だから、ちっちゃいときから、あの子はハシモト。その意味は当人もよく知らないはずです」(『g2』森功「同和と橋下徹」)と述べているが、この言は信用できそうではある。

「週刊文春」二〇一一年一一月三日号は「昔は橋下(ハシシタ)という家が六〇軒ぐらいあった。大概の者は名前を『橋本』と変えて出て行ったと聞いている。ここらの人はみな教育熱心で、一生懸命勉強して就職差別やいろんな差別と闘ってきた」という言を伝えている。

千種川の上流にも幾つかの橋があるが、これらの橋が橋下の名前の起源となっているだろうか。サンカの民は移動の途中で橋の下で過ごしたり、都市の大きな橋の下や橋の近くの河原で天幕生活することもあった。

宮本常一の『山に生きる人々』(未来社)「サンカの終焉」には、「淀川にかかった都島(みやこじま)橋の下にも筵(むしろ)張りの大きな部落があった」としている。現在ではこのあたりの淀川は大川と呼ばれており、都島橋は北区と都島区を結んでいる橋長は一五三メートルで、昔は橋脚も床板部も木製であった。

後藤興善は『又鬼と山窩』の中で播磨揖保(いぼ)川上流(宍粟郡)の老サンカの話として「野にセブリ、橋の下に臥(ふせ)り、辻堂に泊まりながら、河海で釣り糸を垂れ、魚をすくうて、獲物を鬻(ひさぎ)ぎ鬻ぎ旅したらしいのである」と述べている。実際に宍粟サンカも橋の下で寝泊まりすることもあったのである。橋下という名前はサンカの生活とかかわりがあるだろう。

カワタ村とは豊臣秀吉が皮の生産を最下層のカワタに割り当てることによって成立した

カワタ村は藩の政策によって下層民(皮はぎ、小作人、穢多、非人など)を川筋、河原に集団居住させて形成された。そこでは皮革の生産を統制し、皮や皮製品を上納させ、それ以外の商売をすることが禁止された。

また、幕府や藩はカワタの民に対してさまざまな差別政策を強要し、身分の固定化、農民との分断を図った。たとえば「幕府、穢多と百姓の訴状につき触れる。穢多と百姓の取り扱いは別とし、白州に訴える時は百姓は筵(むしろ)の上に、穢多は砂利の上あるいは三尺引下げ書状を置く」「大庄屋、庄屋に用ある時は舗居の外に鞜を脱ぎ小使たちと同席し、頭を土に伏し、路上では道に平伏すべし」「諸国物群衆の場に行く時は平民とは別格に隔てた粗服を着用せよ」「赤穂藩百姓・町人の非人番等の卑賤者と交際することを禁ず」などと触れを出した。

カワタ村は主として斃牛馬処理にあたり、これはタダで生皮を得ることができ、カワタ村の独占であったので、比較的収益の多い仕事であった。ただし、雪駄や草履などの加工を自分でして、自分で売り歩くこともなされていた。カワタ村では皮生産だけでは生活できず、米作、畑作を行なう民もいた。

しかし、カワタ村はしばしば年貢や銀納の取り立て、労役の強制、風俗取締などに対して、幕府や藩、領主や庄屋に抵抗し、しばしば一揆や暴動に発展することもあった。斃牛馬処理権、水利権、入会権などをめぐって、農民たちともしばしば紛争になった

ようやく見付けた橋下集落のあるA地区のカワタ村の記述

一六〇〇年前後に作られた「慶長播磨国図」には、四八のカワタ村が表示されているが、橋下集落のあるA地区は表示されていない。西播地域皮田村文書研究会が編集した『近世部落史の研究〈上〉』に掲載されている「近世部落史関係地図」にはA地区の「皮田村」が記されている。また、同書の「近世近畿部落史年表」では宍粟郡A村に関する記事が三件掲載されている。

寛延元(一七四八)年四月、宍粟郡A村穢多、河原新開地の出作許可願出し、耕作のため、用水利用も願い出る。

慶応三(一八六七)年一月、宍粟郡A村内皮多、困窮につき高割り及びかまど割による広島行人足費用上納を断る。

慶応三(一八六七)年四月、宍粟郡A村内皮多、米価高値、畑作不熟のため救済願い出す。

この年表だけでは、橋下集落がA村とまったく同じであるかは、わからないが、少なくても橋下集落がA村に含まれることは間違いなかろう。この三件のみだけで判断は難しいが、この橋下集落を含むカワタ村は、宍粟郡では比較的遅い年代に作られた村であること、標高が三四〇メートルあるために、稲作よりも畑作に適していたこと、「困窮」「米価高値」という文言でもわかるように、農業状況、食糧事情が厳しかったこと、当局に直接願い出を出したり、上納を断ったりしているので、自分たちの要求をはっきりと当局にも申し入れていることなど、当局に隷従するだけでなく、反抗的な側面ももっていたことがうかがえる。サンカの抵抗精神が残っているのだろう。

宍粟のカワタ村と大阪のカワタ地区との間には古くから皮革の流通ルートがあった

稲田耕一著『かわた村は大騒ぎ』を読めば、播州姫路高木村で千年以前から皮作りがはじまり、次第に播州宍粟郡でも皮革産業が盛んになり、一〇部落以上が皮革を取り扱う村、すなわちカワタ村になり、大阪の西浜などとも繋がりが深かったことが記されている。戦国時代の甲具足馬道具、革太鼓などの生産、近世の革羽織、革頭巾、革足袋(たび)などの装身具生産と、宍粟郡から揖保川や千種川を下って、姫路や赤穂方面に出て、神戸や大阪へとたどる皮革流通ルートが昔からあったと考えられ、サンカやカワタの民が、このルートで行き来していたと考えられる。橋下一族もそうであろう。

革生産の加工過程は、斃牛馬、皮剝、生皮、水漬、脱毛、油鞣、色付、塩出、仕上、革製品などに分かれており、農山村のカワタ村と都市のカワタ町で分業することが多かった。大阪市場は、近畿、中国地方から皮の原材料を仕入れての革加工市場であり、また、革製品の一大消費地であった。革加工製品は農村部にも供給された。橋下徹の祖父が移り住んだ大阪府八尾市安中も、皮多ないしは皮田と称され、死牛馬の処理、生皮からとれるニカワ製造を生業としていた。

高橋貞樹著『被差別部落一千年史』(岩波文庫)では、サンカ(山家)が居つきサンカになる過程を簡潔に著述している。ただし、サンカを「原始的な移動民」「浮浪民」と呼んだり、サンカの仕事を「賤業」と呼ぶのはあきらかに差別的で、感心しない。

「今日の山家は、多く竹細工に従事している。家族を率いて次から次へと雨露(うろ)を凌ぐに足る岩窟、塚穴など、あるいはテント張り、掘立小屋に住み、笊(ざる)、箕(み)、竹籠等を造っては付近を売り歩く。極めて原始的な移動人である。浮浪民のテント張り、小屋掛けが進んで部落ができ、定住するようになると、もはや山家ではない。こうして浮浪民の末路もいつとはなしに良民中に入ったり、雑役、開墾に従事して使われたりしたが、賤業に従事したものはいつまでも疎外された」

橋下一族もこのようにして、サンカの民からカワタの民となり、いわゆる「皮革産業」の担い手となっていっただろう。彼等は幕藩権力から「穢多」身分を強制され、「部落民」として差別されたが、そののちも、サンカの誇り高い魂を持ち続けてきたのであろう。