知ってほしい、島で出会ったハンセン病のこと。 | 話し方教室きいちご 海野くじら

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今日、6月22日はらい予防法による被害者の名誉回復及び追悼の日です。

らいとはハンセン病のこと、私が知っているハンセン病の差別の歴史についてお話したいと思います。

 

 

 

  「ハンセン病問題」この言葉がニュースで出る時に何を思い浮かべますか?

 

ほとんどの方は、「なんだかよく分からない。」「ニュースで裁判の話を聞く」という感想が多いと思います。私もそうでした。しかし、私は宮古島で幸運にもハンセン病療養所で暮らす人たちと仲良くなることができました。教科書やネットでは知り得ない、ハンセン病患者の方達の素顔や笑顔に触れることができました。今から10年前宮古島で出会ったオジーおばーから聞いた話と、ドキュメンタリー制作を通じて知ったハンセン病の歴史についてお話したいと思います。

 

 

ハンセン病療養所は全国に13カ所あります。静岡にも駿河療養所があり、宮古島には南静園があります。

ハンセン病患者は長い間差別と偏見に苦しめられてきました。ハンセン病と診断されると療養所に連れていかれ、生涯そこから出ることができないのです。

 

 

 

アニメ監督の宮崎駿さんももののけ姫の中でハンセン病患者をモチーフにしたキャラを登場させています。たたらばの包帯を巻いている人です。スタジオが東京の多摩全生園と近く、入所者との交流もあったそうです。

そもそもハンセン病は何でしょうか?感染力の弱い感染病です。ほとんどの人は自然治癒力があります。

ハンセン病は皮膚や末梢神経を冒します。現在は薬で完全に治る病気となりましたが昔は栄養が足りない、治療薬がないため。悪化することもありました。最初は赤い斑点が現れます。治療をしないと指の変形や鼻の陥没など見た目に現れる症状のため、周りから恐れられました。昔はハンセン病と診断されると療養所に連れていかれ、名前を変えました。明治時代に制定された「らい予防法」によって隔離政策が敷かれました、ハンセン病と診断されると死ぬまで療養所から出られないという政策です。

 

 

 

  ハンセン病と診断されたら名前を変えた

 

自分がハンセン病になったため、姉の結婚が破談した、兄弟の就職に影響したなど厳しい現実がありました。

療養所にいる人たちは、大半が幼い頃から入所しています。自分がいたら家族に迷惑がかかり、今も恐れられると考えています。私はお話を聞きに行った時お茶を出され頂いていました。「私の入れたお茶が怖くないか?」と言われました。「飲んでくれてありがとう。」とも言われました。切ない気持ちでお茶を飲んだことを覚えています。

 

 

ハンセン病は1940年代に開発された特効薬プロミンによって、完治する病気となりましたが終生の隔離政策はそのままでした。WHOから2度勧告を受けてもかわりませんでした。

 

また人権侵害の象徴として語られるのは、優生思想に基づき「断種・堕胎」手術が行われていたからです。ただ、宮古南静園までその政策が徹底していなかったこと、クリスチャンだった園長の方針などからお子さんがいる入所者の方もいらっしゃいます。産んでも親や親戚などに預けなければならず、一緒にはすごせなかったそうです。穏やかな笑顔で私を迎え入れてくれるおじい、おばあにそんな壮絶な過去があったと知りおそろしくなりました。

 

戦争がある国は怖い、市民のデモを弾圧する政権は怖い…外国の事例をみるとそんなことを思いますが、日本も大分おかしな国です。治る病気になってなお、ハンセン病元患者たちを閉じ込めていたのですから。ただ、療養所で暮らすうちにハンセン病元患者たちは、年を取りました。今から急に社会に出て働けと言われても厳しいものがあります。ハンセン病患者たちは自分たちの失った人生を保障して欲しいと言って2001年には国に対して裁判を行い、勝訴しました。療養所では入所者たちが高齢になり、年々静かに生涯を終えています。入所者と地域社会がどう共存していくかを考えるために。南静園では将来構想がありました。そのうちの一つは広い園内に保育施設を作って子供たちのためになる施設を作るというアイディアがありました。私は、当時の自治会長に尋ねました。「ご自身にお子さんがいないのに保育施設を作るのは苦しくないですか?」と。その方は結婚していましたが、お子さんはいません。

そうしたら、「そんなことはない。小さな子供たちの笑い声を聞けたら嬉しいよ。」笑って答えてくれました。

 

  「孤独の中で死にたくない、社会の関わりの中で生きていたい」

「孤独の中で死にたくない、最後くらいは社会の関わりの中で生きていたい」とも語ってくれました。」私は、その前向きな言葉にハッとさせられました。差別や偏見を受けた苦しい経験があっても穏やかに前を向いています。その時は、治らない病気が進行していて、私が番組を作り終える前に、その方は亡くなりました。その方が社会に歩み寄ってくれた想いを伝えていきたいと考えます。もう一つ、感じたのは差別者と被差別者の意識の乖離です。ハンセン病になり療養所で暮らす人たちは、時間が療養所に入った時で止まっていました。今もなお、自分達はおそれられ嫌われる存在だと信じていました。

 

大半の人がテレビの取材をひどく嫌がりました。でも、悲しいことに外では時間が流れ差別した人たちは生活に追われて、療養所に入った人たちのことを忘れています。私がハンセン病について取材したドキュメンタリーを放送したら、「幼い頃近所のお兄さんがある日突然姿を消して南静園に言ったと噂で聞いた。忘れてはいけないことを思い出すと同時に知ろうとしないで申し訳ないと思った。」こんな内容の感想をくれた視聴者がいました。

 

 

差別した側は忘れ、差別された側の傷は言えないまま、時間が何十年も過ぎました。上を向いても下を向いても時は流れます。どうせなら、悔しいことや嫌なことがあっても前を向いたほうがいいと思いました。

 

 

  差別した側の損失とは

 

このハンセン病問題、差別をした側の社会にとっての損失は何だったでしょうか。それは、「機会の損失」だと思います。私に話をしてくれた人たちは、強くて優しい思いやりに溢れる人たちでした。本をよく読み、哲学の話もたくさんしました。その人達の子供がちゃんと生まれていたなら、どんな人だっただろうか。供養塔には「産声をあげることが許されなかった子供たち」と刻まれています。もし、断種・堕胎の政策までは行わず、賢い人たちの子供が産まれていたらその子供は私にどんな話を聞かせてくれただろうか、そんなことも考えました。弁護士試験に受かったのに、住所が療養所だと分かると取り消された人もいます。その人が弁護士になっていたら、誰を救ってくれたでしょうか。私たち日本人は、変わること、変えることが苦手な国民かもしれません。特効薬があってなお30年以上隔離政策を続けました。

 

きちんと向き合うこと、間違いがあればすぐに見直すことを心に刻みたいと思います。

 

6月22日は らい予防法による被害者の名誉回復及び追悼の日です。ぜひ、皆さんもほんの数分でもいいのでハンセン病問題について調べたり、ニュースを見ていただければ大変嬉しく思います。

 

 

最後までお読みいただきありがとうございました。私の話は以上です。