有間皇子の命日

斉明4年11月11日(658年12月13日)

 

有間皇子は叔母にあたる斉明天皇への謀反の罪で

紀の国の藤白坂で処刑されました。19才の若さでした

(今の数え方ですと18才、まだ高校3年生ですね)

 

万葉集に哀しい歌を残しています

(本人は辞世として詠んだ訳ではないが、

処刑され結果として辞世となりました)

 

   磐白乃 濱松之枝乎 引結 

真幸有者 亦還見武

   (いはしろの はままつがえを ひきむすび まさきくあらば またかへりみむ)

 

万葉集には後の人が悲しみ、磐代で作った歌が次に並んでいます

 

   磐代乃 崖乃松枝 将結 

人者反而 復将見鴨

   (いはしろの きしのまつがえ むすびけむ ひとはかへりて またみけむかも)


   磐代之 野中尓立有 結松 

情毛不解 古所念

   (いはしろの のなかにたてる むすびまつ こころもとけず いにしへおもほゆ)


   後将見跡 君之結有 磐代乃 

子松之宇礼乎 又将見香聞

   (のちみむと きみがむすべる いはしろの こまつがうれを またもみむかも)

 

有間皇子の歌だけが「磐白」と表記され、次に並べられた歌は

「磐代」表記になっているので気になっていました

有間皇子と同じ時に詠まれた、中皇命の歌も「磐代」になっています

 

   君之齒母 吾代毛所知哉 磐代乃 

岡之草根乎 去来結手名

   (きみがよも わがよもしるや いはしろの をかのくさねを いざむすびてな)

 

また亡くなった所も「藤白坂」と有間皇子に絡む地名は「白」が多い

牟婁の湯の浜辺も「白良浜」(確認できる資料は平安時代になりますが)

万葉集はいわゆる表音文字なので、

「磐代」でも「磐白」でも

かまわないと言えばそうなのですが・・・・。

 

万葉集の選者がわざわざ「白」の字を当ててくれたのではないかと妄想が入ります

 

有間皇子は「潔白」・・・無実だったのだと。

 

「藤白」には伝説があります

 

皇子の潔白を証明するように、

藤の花が墓の傍の松の大木に絡みつき

白い花を咲かせるようになったため、

「藤白」と呼ぶようになったと


土地の古老の言い伝えが残っているそうです