兵衛時代以前
前九年の役 奥六郡 安倍貞任・藤原経清らの東北住民を陸奥守源頼義・朝廷軍が破る。
後三年の役 仙北3郡 清原家衡と清原清衡(藤原経清子)の内紛に陸奥守源義家が介入。義家・清衡の勝利。
嘉保1(1095)年 義綱、佐渡配流
嘉保2(1096)年 黒鳥侵攻
永長2(1097)年秋 桜井宗方・羽生田𠮷豊奮戦敗北
北畠中将時定 派遣、敗死
義綱恩赦・越後下向
承徳2(1098)年 間瀬入道参戦。
能代の戦い 真鳥敗走。
山上の戦い 黒鳥方、山上を失う。
能代の戦い 越後勢敗走。黒鳥方、本拠五十公野・亀田失う。
亀田三郎の発案によって、蒲原・鯵潟に居城を築く。
この間、何度となく鯵潟を攻めるも堅固なために敢え無く失敗。
嘉承3(1108)年 義綱および越後勢、反攻に転じる
天仁(1109)年春 義綱率いる越後勢が鯵潟を攻める。失敗するも、その要因は、兵衛の妖術の力による。
初夏 越後勢の包囲によって兵糧枯渇の鯵潟で、仲間割れ発生。亀田三郎降服。
師走 厳冬。鶴の仕草によって寒敷きを考え付いた、間瀬入道の次男によって城内へ攻め込む。
兵衛の最後の抵抗に越後勢が怯む。
兵衛の強弓を受ける義綱だったが、掠り傷であると鼓舞し、兵衛を打ち破る。
越後一宮・彌彦神社と蒲原加茂の青海神社の使者として、二羽の鶴が現れ、兵衛の首を緒立、兵衛の胴体を押付 に連れて行き、埋める。
後世、地域の者は、越後勢の勇猛果敢さと兵衛一党の祟りを恐れ、武神・八幡神を祭る、八幡宮を建立する