23-12-21

去る12月8日は太平洋戦争開始の日でしたが、それに関して中国新聞「天風録」に「似島(にのしま)」のことが少し触れられていたので、今回は「似島」に焦点を当ててみます。

「似島」は広島港の沖合3キロにある周囲16キロほどの島です。そこには宇品港からフェリーで渡ります。およそ20分で似島桟橋に着きます。

 

島の人口は600人余り、島内にバス・タクシーはなく、信号機もなく、川も橋もないそうです。現在は観光で訪れる人が多く、レンタサイクル、カヤックツアー、バーベキュー広場、グランピングなどを楽しむことが出来ます。

私が似島を訪れたのは2009年2月でした。「安芸の小富士」(上)と呼ばれる美しい形の山(278m)に登って瀬戸内の絶景を眺めた後、島内に残る戦争遺構を見学しました。

似島の歴史は戦争と切り離せないものがあります。明治時代以降、戦争で大陸に渡る兵士はすべて宇品港から出港していたため、すぐ前にある似島には戦争がらみの話が多く残っています。

始まりは日清戦争の時(1895年)で、兵士たちが海外から赤痢やコレラを持ち込むのを防ぐため「陸軍第一検疫所」が設けられました。検疫所開設に尽力した後藤新平の銅像が敷地内に建てられ、今も残っています。

日露戦争(1904年~)には海外派遣の兵士が増えた(日清13万人、日露67万人)ことから「第二検疫所」が出来ました。今はその跡地に「広島市臨海少年の家」が出来ており、学生さん達が合宿などで利用しています。

 

1914年に第一次世界大戦が始まると、似島には「俘虜(ふりょ)収容所」ができました。「俘虜」とは「捕虜」のことです。

 

ドイツ領だった中国・青島(チンタオ)に日本軍が侵攻した1919年に、4000人のドイツ軍捕虜を似島に収容しています。軍人の捕虜は3906人でしたが、ナゼか人数を丁度4000人とするため、ドイツの民間人も同時に連行したとされています。

当時は捕虜の尊厳がしっかり護られており、割と自由に島の人たちと交流していたそうです。民間人捕虜の中に青島で店を開いていた菓子職人のカール・ユーハイムが居て、彼は似島でもドイツ定番のお菓子「バウムクーヘン」を作りました。これが日本初の「バウムクーヘン」だとされています。

カール・ユーハイムは1909年神戸で有名な洋菓子店(上)を創業しています。勿論今でも一番の人気商品は「バウムクーヘン」だそうです。

 

また、サッカーによる交流も盛んに行われ、1919年(大正8年)にドイツ人と現広島大学の学生による親善試合が行われ、これが日本初の国際試合とされています。また、似島中学校はサッカー界でも古豪として知られ、1970年には「第一回全国中学校サッカー大会」で準優勝に輝いています。

1941年(昭和16年)に太平洋戦争勃発、似島には大陸から兵士と一緒に戻ってきた軍馬の検疫を行うため「馬匹(ばひり)検疫所」が出来ました。

1945年8月広島市に原爆投下。「第二検疫所」が臨時の野戦病院となり被災者を受け入れました。その年末迄に計1万人が運ばれましたが、殆どが亡くなったそうです。

戦後、検疫所跡地に原爆による戦災孤児などに対する福祉を目的にした「似島学園」(上)が設置されました。また、1972年には原爆被災者の「慰霊碑」(下)が建立されました。

現在の似島は観光で訪れる人が多く、レジャーや釣りなどで楽しい施設が揃っています。そうした人たちも、島内に今も残る戦争遺構を目にすることが出来ますので、似島と戦争歴史の関わりを考える機会になるでしょう。

 

 次回は12月24日「2024年どうなる呉市」です。