23-11-24

前回NHK「ファミリーヒストリー」から角野卓造を取り上げましたが、今回も同番組から俳優「哀川翔(あいかわしょう)」に焦点を当てます。

哀川翔は現在62才。20才の頃に柳葉敏郎らと共に路上パフォーマンス集団「一世風靡セピア」(下)のメンバーとして活動していました。その後は俳優・タレントとして数多くの映画・ドラマに出演しており、今なお第一線で活躍しています。

哀川翔は呉には殆ど縁がないようなのですが、父親が海上自衛隊に勤務していたとのことで、全く関係なくはないと勝手にこじつけて今回取り上げることにしました。

 

哀川家のルーツは佐賀県にあり、先祖は佐賀藩の家臣であることが分かっています。当時はかなりのお屋敷だったようで、300坪の広さを誇っていたとか。屋敷のすぐ近くには大隈重信の生家もあったそうです。

 

哀川翔のお父さん(哀川家興)は早稲田大学を卒業後海上自衛隊(当時は警備隊)に入り、幹部自衛官のパイロットとして活動していました。自衛隊での階級は「二佐」で、旧海軍なら「中佐」ですから、かなりの地位と言えるでしょう。

自衛隊は転勤・異動が多く、徳島、鹿屋、館山など各地を転々としました。哀川翔が生まれたのは徳島に居る時でした。

昭和42年(1967年)1月、父家興(当時37才)が訓練で乗っていた哨戒ヘリ(上HSS-2)は徳島沖で別の哨戒機(下S2F-1)と空中接触し墜落、乗員10名全員が殉職してしまいます。

この時、翔は5才でしたが、母親が臨月で飛行機に乗れなかったため、翔が代わりに父親の遺体確認をし「間違いなくパパだったよ」と母親に電話しています。

この事故はマスコミで大きく取り上げられ、待合室の椅子に座り、同行した叔父が読む新聞を覗き見する翔の写真が新聞に載りました。この事故について本人は「5才だったが覚えている」と語っています。

 

父親の事故死から一家は実家である鹿児島県鹿屋市に移住。翔は学校では無遅刻無欠席で勉強も優秀だったとか。運動神経も抜群で将来は体育の教員になりたいと思っていたようです。

 

父親の事故から11日後に弟が誕生しています。哀川翔は5才にして父親の遺体を確認するという壮絶な経験をしましたが、幼い子供を抱えた母親もまた大変な生涯だったと言えるでしょう。

「哀しみを川に流して翔び立て」を名前の由来とする哀川翔は62才を越えた今も元気いっぱいです。これからも彼の活躍を温かく見守り、応援したいと思います。

 

 次回は11月27日「恋虹ベンチの後日談」です。