23-12-03

早瀬大橋を渡って江田島市に入ると、安徳天皇にまつわる碑文(上)が建っています。安徳天皇とはご存知の通り、平清盛の政略で2才余にして天皇(第81代)となり、7才前に壇ノ浦の波間に命を落とした悲劇の人。父は高倉天皇(第80代)、母は平徳子(清盛の娘・建礼門院)です。

 

天皇一行がこの地に来た経緯は、屋島の戦いに敗れた平宗盛(清盛の三男)が安徳天皇と三種の神器を奉じ、建礼門院、二位尼らを帯同し、100隻余の船で彦島(壇ノ浦)目指して瀬戸内を西下しますが、その途中でこの地に立ち寄ったのです。

しかし、執拗に追ってくる源氏に平宗盛一行はこの地を出立し、瀬戸内をさらに西下しました。そして壇ノ浦の決戦に至ります。そこで二位尼は幼い安徳天皇を抱き「波の下にも都がござります」と言って、天皇を抱いたまま壇ノ浦の急流に身を投じたのです。

母の建礼門院も我が子を追って入水しますが、一命を取りとめます。以後仏門に入って京都大原の「寂光院」で59才の生涯を閉じるまで静かに余生を過ごします。

建礼門院(安徳天皇の母)=平徳子。父は平清盛、母は平時子(二位尼)。

18才で高倉天皇の中宮となり安徳天皇を産む。

話は宮島に移ります。宮島桟橋から厳島神社に向かって行くと、商店街を抜けた近くの海岸縁に1基の碑(上)が建っています。途切れることのない人の波ですが、この碑に目を向ける人は殆どいない様です。碑の表面には「二位尼燈籠」と刻まれています。

二位尼(にいのあま)=平時子=平清盛の正室(後妻)=安徳天皇の祖母。

 

平清盛の死後、平家の勢力は衰退し、壇ノ浦の戦いで全滅します。前述したとおり、二位尼は「都のおうちに帰りたいヨー」と言って愚図る7才の孫天皇を抱きかかえて海に飛び込んだと言われています。

 

その後、二位尼の死骸は宮島の「有の浦」という浜辺に流れ着きます。現在「二位尼燈籠」の建つ場所がその漂着場所と言われています。

 

高倉天皇(第20代)=安徳天皇の父。建礼門院の夫。

父は後白河天皇、母は平滋子(二位尼の異母妹)。従って、二位尼から言うと、妹が生んだ子の所へ自分の娘を嫁がせたことになります。

 

いつか江田島、宮島に行かれる機会がありましたら、838年前に起こった平家一門の悲しい運命に想いを馳せてみるのも一興かと存じます。

 

 次回は12月6日「安浦八幡の異形狛犬」です。