23-10-19

安浦町出身の実業家亀田多吉については、去る2月6日付けの私のブログで紹介済みですが、彼が残した自伝書「砥石工業の黎明期を語る」に基づいて、もう少し説明してみたいと思います。

近代の呉は大日本帝国海軍の一大拠点として発展しました。呉海軍工廠(上)で艦船・飛行機の開発製造が進むにつれ、新たな技術が生まれ、多くに技術者が育っていきました。亀田多吉はそうした時代に生きた一人でした。

亀田多吉は我が国初の研削砥石会社を設立して財を成し、郷里にも多大な貢献をしたことから、安浦町の神山(かみやま)神社(下)境内に立派な銅像が建てられています(上)。この像は川尻町出身の上田直次の作で、昭和4年に建立されました。

亀田多吉は明治12年生れ、安浦町三津口の半農半運送業で24才まで実家を手伝い、24才~29才は呉工廠砲熕部で働きました。

明治40年より研削砥石を製造するようになりましたが、その目的は軍艦に使われる装甲板(俗にいう「玉よけ」)(上)を研削するためでした。

装甲板は室蘭の「日本製鋼所」(上)にて製造後、ガスで切断して呉工廠に持ってきて切断箇所を砥石で仕上げる訳ですが、この砥石を自分で造ろうと思い立ち、明治40年3月に呉から広島に出てきました。

 

当時、人造研削砥石(下)は全部輸入品を使っていて、主として大企業の需要家が使用するのみ、その他の小企業では製材所とか鍛冶屋くらいで少量しか使われていなかったそうです。

亀田多吉は当時日本で一番硬いと言われていた大和や河内の金剛石(エメリー)と珪砂とに着目し、研削砥石開発にこぎつけました。彼が創業した「広島製砥所」は今でも広島市の安佐北区にあります。

次に銅像の作者上田直次(上)についてですが、彼については私もブログで何度か触れてきましたが、彫刻で不動の地位を築いた人です。空襲で家を失い、戦後は郷里川尻で過ごし、地元美術界の指導に当たられました。

上田氏の作品は、川尻文化センター前(上)に展示されています。また、「杉本五郎中佐像」や山羊をモチーフにした彫刻「愛に生きる」は呉市美術館に展示されています。安浦に行かれる機会がありましたら、神山神社の銅像を訪ねてみてください。

 

 次回は10月22日「呉を死守した紫電改」です。