23-04-13

日本の敗戦が決まった後の8月18日未明、回天搭乗員の橋口寛大尉は、自身が乗艇する回天の操縦席に座り、拳銃で胸を撃ち抜いて自決した。ナゼ自殺の道を選んだのか?そこに至るまでの経緯を辿ってみる。

大正13年鹿児島で生まれた橋口が21才になった時、太平洋戦争が始まった。彼は迷うことなく海軍兵学校(72期)に進み、昭和19年4月に回天搭乗員になった。

大迫基地から大津島、光基地へ転属しながら回天の訓練に明け暮れ、同僚が次々と特攻出撃するなか、橋口も出撃を嘆願したが、後進の指導を命じられ基地に残された。

橋口は特攻隊隊長兼搭乗員分隊長として、多くの隊員に強い印象を残した。回天の戦力発揮のために技術面、精神面のリーダーとして渾身の努力を傾注していった。

 

同期の数名が出撃・戦死していくなか、橋口は死に遅れる思いで歯をくいしばりながら後進の指導にあたり、自身の出撃日を待ちながら遺書を書いた。

昭和20年8月11日、ようやく橋口の出撃が決まった。回天特攻隊神州隊長として「伊36潜水艦」に乗り込み呉基地を出港した。ところが、呉沖早瀬瀬戸でアメリカ戦闘機の銃撃に遭い、艦が損傷を受けた。

 

乗艦は呉基地へ引き返して修理を開始。再出撃を8月20日と決めたが、その前の15日正午に終戦。橋口大尉(6月1日昇進)の出撃は実現しなかった。

兵学校72期の回天隊搭乗員12名の内10名が出撃・殉職していた。他の戦友に完全に死に遅れた橋口は、翌16日に強行出撃を試みた。が、海軍上層部から帰還命令を受け、やむなく平生基地へ戻った。

 

自らも特攻出撃・殉職することによって戦友の元へ向かい、国体護持の大任を果たそうとした橋口の夢は「敗戦」の事実によって果たすことが出来なくなった。

橋口は強く責任を感じ、遺書と辞世の句を書いた。書き終えた18日午前3時、自身が乗艇していく予定だった「回天」に真っ白な第二種軍装で乗り込んで操縦席に座り、拳銃で2発胸を撃ち抜き自決した。享年21才だった。

 

遺書は「おくれても 亦おくれても 卿達に 誓いしことば われ 忘れめや」の遺詠で終り、回天で戦死した同期生の名前を列記していた。

橋口が自決の道を選んだのは「自分の努力が足りなかった為に、神州の国体を護持することができなかった」とした責任感からであった。

 

もし、橋口が呉基地から出撃した時、アメリカ軍機の銃撃に遭わなかったら、彼は勇猛果敢に戦って仲間の元に逝くことが出来たであろう。戦争中の人生は偶然によって切り分けられるものである。