22-09-06

去る8月24日、「経営の神様」と呼ばれた京セラ創業者の稲盛和夫氏(90歳)が亡くなられました。氏の功績は素晴らしいものがありあすが、ここでは、稲盛氏ご本人でなく、奥様の朝子さんにまつわる話をします。と言うのは、彼女の先祖(祖父母、父)が私の住む呉市と少なからずのご縁があるからです。

祖父は明治時代の朝鮮の人で、名前を「禹範善(ウ ボムソン)」といい、日清戦争当時、朝鮮訓練隊の隊長でした。彼は日本軍と手を組み、ロシアに接近しようとする朝鮮王妃閔妃(ミンビ)を暗殺してしまいます。明治28年10月のことでした。

 

朝鮮軍に追われる身となった禹範善は日本に亡命し、ひっそりと暮らします。やがて酒井ナカと結婚、長男長春(ジャンチュン)が生まれます。朝子さんはこの長春の四女になります。

範善一家は軍港景気に沸く呉市に引っ越し、寺西町に隠れ住みます。が、朝鮮から追ってきた暗殺団に見つかり、暗殺者が暗殺されるという皮肉な結果となります。禹範善46歳の生涯でした。現在、呉市内の「神応院」という寺院の境内に大きな墓が建っています(上)。

 

夫を亡くしたナカは貧しい暮らしを続け、行商などして子どもたちを育てていきます。我が子が病気になると、お金がなくても看てくれる呉海軍病院まで歩いて通いました。

長春は県立中学校(現・呉三津田高校)から東京帝国大学農学部に進み、やがて農学博士の称号を得るまでに成長します。戦後の韓国は政治、経済すべて大混乱が続いており、食料不足、肥料、農薬なども欠乏して農民の被害が甚大でした。

長春は韓国から強い要請を受け、昭和25年に農業指導のため韓国に渡ります。そこで彼は韓国民が必要とする白菜、大根の種作りから始め、昭和30年には目標額に近い普及のための種子が生産できるようになります。

 

こうして韓国農業関係者の間で、長春は神様扱いされ、時の李承晩大統領から大韓民国文化褒章を授与されました。

 

その後長春は、朝鮮人亡命者を支援していた須永家に養子に入って「須永」性となり、日本人として生きていく決心をします。

 

須永長春博士はその後小春という女性と結婚し、6人の子どもさんを授かりました。朝子さんはその四女になります。

 

いつ、どういう経過をたどったのか分かりませんが、朝子さんが京都へ行って「松風工業」という碍子製造工場に勤めている時に、同じ会社の若き稲盛和夫氏と知り合い、昭和33年12月に結婚しています。

稲盛氏は結婚と同じ頃松風工業を退社し、翌年、妻の朝子さんや松風工業社員8人を引き連れて「京都セラミック(現・京セラ)を創業しました。

 

稲盛和夫氏、朝子さんには女のお子さんが三人居ます。長女しのぶと三女瑞穂さんは稲盛財団の役員を務めています。次女千晴さんについては情報がないので表舞台には立っていないものと思われます。

稲盛家は京都の伏見区にありますが、立派な門と石垣に囲まれたかなりの豪邸(上)で、残された資産は1,000憶円を超えると見られています。これを妻の朝子さんと三人のお子さんで分けることになるのでしょう。