令和3年4月14日(水)

 

亀山神社の上道路に「神応院(じんのういん)」という禅寺があり、そこの境内に韓国人「兎範善(ウ・ボムソン)」の墓があります(下)。彼は日清戦争当時、朝鮮軍訓練隊の隊長でした。

彼は日本軍と手を組み、ロシアに接近しようとする朝鮮王妃閔妃(ミンビ)を暗殺してしまいます。明治28年10月のことでした。

 

朝鮮軍に追われる身となった兎範善は日本に亡命し、ひっそりと暮らします。やがて酒井ナカと知り合い結婚、長男長春(ウ・ジャンチュン)が生まれます。

 

一家は軍港景気に沸く呉に引っ越し、寺西町に隠れ住みます。が、朝鮮から追ってきた暗殺団に見つかり、暗殺者が暗殺されるという皮肉な結果となります。兎範善46歳の生涯でした。

 

以上は平成28年5月に私の椿ブログで紹介済みです。

今回は息子「兎長春」(下)の話です。

夫を亡くしたナカは貧しいなか行商などで子供を育てていきます。我が子が病気になると、お金がなくても看てくれる海軍病院まで歩いて通うなどしました。

 

大切に育てられた兎長春は県立中学校(現・三津田高校)から東京帝国大学農学部に進み、やがて農学博士の称号を得るまでになります。

 

戦後の韓国は独立解放したものの、政治・経済すべて大混乱が続いており、食料不足、肥料、農薬などが欠乏して農民の被害は甚大でした。

兎長春博士は韓国からの強い要請を受け、昭和25年に農業指導のため韓国に渡ります。そこで彼は韓国民が必要とする白菜、大根の種造りから始めます。

 

折から始まった朝鮮戦争の間にも育種と育苗の改良育成は続けられ、昭和30年には目標の額に近い普及のための種子が生産されるに至りました。

 

こうして、韓国農業関係者のあいだで長春は神様扱いされ、時の李承晩大統領から大漢民族文化褒章を授与されるまでになりました。この章は韓国国民にとって、最高の名誉とされているものです。

受賞の知らせを聞いた長治博士は「祖国はようやく私を分かってくれた」と涙を流して喜んだそうです。そして、昭和34年8月、十二指腸潰瘍を患った彼はソウルの病院で安らかに息を引き取りました。韓国にきて9年後、61才でした。葬儀は国葬に準じる社会葬として行われました。

兎長春博士には6人の子どもがありました。内四女・朝子は京セラ創業者稲盛和夫に嫁いでいます。(上)

韓国では、兎博士のことが道徳の教科書に載っており、韓国国民で兎博士を知らない人は居ないとまで言われています。釜山市の研究所跡地には「農業の父」「キムチの恩人」の業績を称える記念館(上)が建っています。

呉市内の神応院境内(上)には、一応自由に出入りできる状態にあります。興味持たれた方は一度兎範善の墓碑を訪ねて見られると良いでしょう。