令和3年3月25日(木)

 

呉市の呉港高校と黒瀬町の武田中・高校を運営する呉武田学園は、創設から今日まで武田信玄と同族の安芸武田氏、周防武田氏の直系で引き継がれてきています。これは全国的にも珍しい事例だとのことです。

 

清和源氏の武田家は甲斐と安芸に分かれて波乱の時代を迎えます。安芸武田氏は1541年に毛利元就に滅ぼされますが、自刃した当主の弟、小三郎が元就に仕えて生き残り、玖珂(現岩国市)の周防武田氏の祖となりました。

 

江戸時代の1818年、周防武田氏12代当主宗左衛門が、近隣の子弟教育の場として「稽古屋敷」を開きますが、これが武田学園の祖となり、明治維新後も玖珂で学校を営みます。

 

特に16代当主武田甲斐人氏は玖珂町英正学校理事として中等教育の向上に努めると共に、大正6年には新天地の呉に「大正中等学校」を設立。これが呉港高校の前身となります。当時の呉は海軍進出で活気があり、若い人材を育て易いと考えたのかも知れません。

 

この度、玖珂町(岩国市)を訪れ、周防武田氏の足跡を巡ってきましたので、私が撮影した写真を添えて以下にご紹介します。

玖珂町で最初に訪れたのが「武田氏屋敷跡」です。立派な白壁の塀に囲まれた広い屋敷跡でした。今は廃屋になっていて雑草が生い茂っていますが、平成17年に岩国市の指定文化財になったことで、説明板も建てられていました。

庭に建物はなく、井戸や「稽古屋敷跡」との碑が有る他は、代々の墓石が立ち並んでいるだけでした。武田信宗公の墓は寳居印塔、武田光和公の墓は五輪塔で、鉄柵に囲まれた一段高い所に設けられていました。

隣接して武田甲斐人氏、キヨ夫人、佐久夫人の墓もありました。屋敷の小高い裏山までは行きませんでしたが、そこにも、小三郎、八重女、光信などの墓があるとのことでした。

屋敷跡から100mほど離れた場所に建つ「欽明寺(きんめいじ)」も訪ねました。この寺は欽明天皇(560年頃)の代に建立された古刹で、周防武田氏の菩提寺であり、武田光和の供養塔がありました。武田光和は正妻(八重女)との間に嫡子がいないまま、33歳の若さで病死しています。

また、武田甲斐人氏が寄贈したという観音堂が建っていて、それを紹介する碑もありましたので、武田氏が地域に溶け込んでいたことが十分に伺えました。

広島市の安佐南区まで戻り、最後に「立専寺(りゅうせんじ)」を訪ねました。ここは背後にそびえる武田山にあった銀山城(かなやまじょう)の代々の城主の菩提寺で、銀山城は1221年に武田宗信が築いたと言われています。

今の住職も武田氏とのことで、武田一族とは深いご縁で結ばれており、ここでも境内に武田甲斐人氏の名前を見ることができました。

 

尚、武田山の中腹あたりに、武田家代々の墓所があると聞いていましたが、道が狭く荒れているとの話でしたので、参拝するのを諦めて帰途につきました。