令和2年12月5日(土)

 

先日郷土史研究会の大会が東広島市豊栄町で開催されました。豊栄町は毛利元就の継妻(後妻)である乃美大方(のみのおおかた)の誕生地であることから、大方についての研究発表がありました。大方とはどんな人だったのでしょうか。

元就(上)の正室は「妙玖(みょうきゅう)」といい、「三矢の訓え」で知られた毛利三兄弟(隆元、元春、隆景)をもうけています。

 

妙玖は安芸・小倉山城主吉川国経(くにつね)の娘で、元就とは政略結婚でしたが、互いに信頼しあい、良妻賢母として戦国の世を生きています。

 

その妙玖が天文14年(1546年)47才にして死去(元就49才)。3年後に乃美大方が嫁いできました。元就との間に3人の息子、元清、元政、秀包(ひでかね)をもうけています。

乃美大方の墓所(上)は下関市の功山寺に有ります。また、孫の毛利秀元が下関に祖母の菩提寺として普賢寺(下)を建立しています。

乃美大方の三人の息子たちのことは、先妻の息子3人に比べ、あまり知られてはいませんが、それぞれ戦国の時代を逞しく生きています。

最初の息子元清(上)は元就54才の時の子。17才の時政略結婚で村上水軍の娘を正室として迎えます。一時は秀吉の軍勢と敵対しますが、以後は秀吉に臣従し、毛利輝元を支えて四国攻めや九州平定に出陣しています。

 

天正17年(1589年)安芸広島城の築城や城下町建設の普請奉行を勤めるなど、当主である毛利輝元を補佐し、輝元から12,000石の知行地を与えられています。

文禄の役(1592年)には病床にあった輝元に代わって、自ら毛利軍の総大将を務めました。この時秀吉が土産として虎を所望してきたので、2頭ほど生け捕りにして秀吉に送っています。その虎は京の市中で評判になり、第107代後陽成(ごようせい)天皇も見物に訪れたといい伝えられています。

2番目の息子元政は、元就62才の時の生まれ。毛利氏の一門として文禄・慶長の役や関ヶ原の戦いに参戦しています。関ヶ原以後は唯一残った元就の子として動揺する毛利一門をまとめ輝元を補佐しますが、慶長14年(1609年)萩にて病没。享年51才でした。山口県周南市の仙竜寺跡に墓所(下)が有ります。

3番目の息子秀包(上)は元就71才の時の生まれ。元就はその3年後に74才で死去しています。小早川隆景の養子となり、16才の時人質として秀吉のもとに送られますが、秀吉の厚遇を得てその養女(大友宗麟の娘)を妻に迎えます。その縁で洗礼を受けキリシタン大名になります。

関ヶ原の戦いにも参戦し、朝鮮にも渡って抜群の武勇を誇り、小早川の名跡を汚すことなく活躍しますが、関ヶ原の翌年(1601年)喀血により35才の若さで病没。下関市の西楽寺に墓所(上)が有ります。

 

それにしても元就は子沢山。奥さん二人で合計10男3女をもうけたと言います。一代にして中国地方全域を制覇した元就は家族に恵まれた幸せな生涯だったのでしょう。