令和2年7月10日(金)
前回に続いて空母の話です。今回は「加賀」の数奇な運命をたどってみます。話は今回も艦名から入ります。
旧日本海軍の空母は「鳳翔」や「飛龍」「瑞鶴」など「空を飛ぶ縁起の良い動物」の名前を付けるのが決まりでした。その点「加賀」と「信濃」は空母なのに旧国名になっています。なぜ?
それはこの2艦が戦艦からの改装艦だからなのです。
旧日本海軍では「戦艦は旧国名を付ける」と規定されており、戦艦で建造された「加賀」「信濃」は進水時に旧国名がつけられました。それが空母に改装されても引き継がれたのです。
では、なぜ戦艦を空母に改装したのでしょう?その理由を「加賀」について見てみると「加賀」は数奇な運命に巻き込まれていました。
「加賀」は長門型戦艦を拡大発展させた後継艦として大正9年川崎重工で起工しました。速力は当時最高レベルの26ノット(約48km/h)で「高速戦艦」と呼べるほどでした。
大将10年11月、「加賀」は進水しますが、直後に「ワシントン海軍軍縮条約」が締結され、ここから「加賀」の数奇な運命が始まります。
この軍縮条約は戦艦や空母の保有数を制限するもので、大正11年2月に締結、竣工を前にした「加賀」は制限枠をオーバーした為に廃艦となることが決定してしまいます。
廃艦が決まった「加賀」は標的艦として魚雷などの実験に使用されることになり、横須賀に曳航されました。「加賀」の歴史はここで終わるはずだったのです。戦艦に出来ない「加賀」は主砲を取り外しますが、それは戦艦「長門」に取り付けられました。
(大震災直後の横須賀工廠・空母天城が傾いている)
大正12年9月、関東大震災発生。これにより「加賀」の運命は再び大きく変わります。この時横須賀工廠で空母に改装中だった「天城」が地震で大破し、海軍の計画が狂ってしまいます。そこで「加賀」の標的艦転用は取り消され、空母に改装されることとなります。
早速「加賀」は横須賀工廠で空母への改装を受けることになりますが、その計画は紆余曲折、暗中模索、大迷走しました。日本海軍は小型空母の建造経験しかなく、ましてや戦艦から空母への改装は初めてです。飛行甲板の形状、排煙方法も二転三転、ようやく竣工したのは昭和3年のことでした。
昭和10年まで何度かの改修を実施するのと前後して「加賀」は対中国戦線で実戦を経験します。そして昭和16年「第一航空戦隊(赤城」「加賀」)」と「第二航空戦隊(「飛龍」「蒼龍」)」が編成され、ハワイの真珠湾攻撃で任務を成功させます。
その後「加賀」は西太平洋のトラック島へ進出し、ラバウル攻撃など、太平洋やインド洋で戦い続けました。しかし、その奮戦は半年程で終りを告げます。運命の「ミッドウェー海戦」です。
昭和17年6月はじめ、日本海軍は空母6隻(「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「鳳翔」「瑞鳳」)をもってミッドウェー島に攻勢をかけました。
しかし、アメリカ急降下爆撃機隊の攻撃を受け、「加賀」にも1000ポンド爆弾が次々に命中し、艦橋が吹き飛び、格納庫内の魚雷、爆弾が次々と誘爆し、甲板上は火の海になりました。
「加賀」は7回に及ぶ爆発と共に転覆し艦尾から沈没、艦長岡田次作大佐以下約811人が艦と運命を共にし、生存者は40人ほどでした。こうして「加賀」はその数奇な一生を終えました。
時は流れて平成11年10月、ミッドウェー島沖深さ5,200mの海底に、1隻の空母が発見され「加賀」と認定されました(上)。「加賀」は今も深い海の底で静かに眠り続けています。
上写真は現代の「かが」。平成29年4月、呉基地に初入港した時の画像です。空母の外観をしていますが、海上自衛隊では「護衛艦」と呼びます。ただ、これを正規の空母に改装する話も一部にはあるようです。