令和2年5月7日(木)

 

下蒲刈に縁のある幕末の志士が実在したという話を得たので、ここで紹介します。名前は

赤禰武人(あかねたけと)(下)。高杉晋作が結成した奇兵隊の第三代総管を務めています。

赤禰の名は2015年のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」(井上真央主演)でも登場し、阿部亮平というカープの鈴木誠也に似た役者さん(下)が演じています。

赤禰武人の父親松﨑三宅(さんたく)が下蒲刈の人。地元で見習い医師をしていましたが、師匠の娘光恵と恋仲になります。光恵も下蒲刈生まれです。

しかし、二人の結婚は認められなかったため、二人は小舟で島を抜け出し、柱島(岩国市)に漂着、そこの住人となります。武人は長男として柱島で生まれ、成人して庄屋を務める赤禰家の養子になります。

従って、武人は長州人ですが、後に捕縛され取り調べを受けた時に「自分は芸州鎌苅(蒲刈)藩出身である」と答えています。見たこともない下蒲刈ですが、父母の生誕地である下蒲刈を故郷とする思いが強かったものと思われます。

武人の青年期は幕末激動の時代で、16歳の時(1853年)ペリーが来航します。19才の時に松下村塾に入門しますが、その1年後に高杉晋作が、更に山縣有朋が入門してきます。

 

大老井伊直弼がハリスと結んだ「日米修好通商条約」が不平等であるとして、憤った勤王譲位派が激しい抗議行動を起して「安政の大獄」となり100名ほどが罪を問われます。1853年には吉田松陰が刑死。1860年3月井伊大老が桜田門外で暗殺されます。

武人は高杉らと協力して奇兵隊を創設し、自ら3代目の総管に就任しますが、藩内の融和を図ろうとした動きが二重スパイとみなされる等、高杉らと意見の違いを見るようになります。

 

更に、高杉が功山寺挙兵(上)で成功すると、赤禰の藩内での立場が弱くなり、結果的に非業の死を遂げることになります。

1865年3月、赤禰武人28歳の時、大坂で西郷隆盛(上)と薩長連合について会談する直前に幕吏により捕縛され、京都六角獄へ送られます。

 

8ケ月後に一旦釈放され、長府藩主、岩国藩主などに面会して公武合体を説きますが、既に両藩は倒幕方針で固まっており、なす術がない状況でした。

 

年も押し詰まった12月27日、故郷柱島にて妻や一人娘のいる所で再び捕縛され、翌1866年1月25日に刑死します。一度の審問もなく、幕府への内通者・反逆者と決めつけられての処刑でした。明治を目前にした29才の時のことです。

 

せめて切腹にと願う者も多くいました。長府藩主は赤禰の助命を求めて自ら早馬で駈けつけましたが、間にあいませんでした。

 

命令では”斬首のうえ、3日間さらし首にせよ”でしたが、夜になって覆面の男が3、4人現れて首を奪って逃げています。

高杉晋作(上)は、赤禰処刑の翌年、結核で没しますが、病床で「俺は赤禰を救ううことができなかった」と後悔の言葉を残したと言います。

 

後年、明治政府が行っていた維新殉難者への贈位を赤禰にも適用すべく帝国議会での承認が得られていましたが、元勲山縣有朋の反対にあって実現していません。

昭和28年、赤禰が処刑された場所に「憂国の士、赤禰武人顕彰碑」が建立されました(上)。彼の墓は柱島西栄寺と柳井市願成寺、それの下関市東光庵に有ります。

  (資料提供:下蒲刈弘願寺住職:長野正道氏「広郷土史研究会」)