令和2年4月21日(火)

 

JR呉駅の西側に「呉陸橋」があります。JR呉線を跨いだ跨線橋で、長さ320m、幅15m、高さ5mの大きな橋です。かつてはこの橋の上を路面電車が優雅に走っていました。

  (三条2丁目側からみた呉陸橋登り口:現代)

 

この陸橋が完成したのは、昭和28年12月のことです。戦時中の昭和17年に海軍のお声掛かりで着工しましたが、終戦で工事中断。12年越しに日の目を見たことになります。戦後分の工費が5,000万円だったとの記録があります。

 (川原石線開通日の呉市電)

 

呉市の路面電車は明治42年10月、全国で7番目という早い開通でした。(一番早い京都から14年後、広島市は呉市の3年遅れで開通)。煙を吐かず電気で走る乗り物の登場に呉市民はたいそう驚いたそうです。

  (二河橋の上を走る呉市電:明治末期)

 

最初の運転区間は今の三条3丁目から本通り4丁目まででしたが、半年後には川原石線(三条3丁目から川原石正円寺前まで)が開通しました。

 

ただ、この頃は陸橋がなく、鉄道線路と平面交差でしたので、川原石へ行く乗客は、鉄道の踏切で電車を降り、歩いて線路を渡って向い側で待っている川原石線の電車に乗り換えていました。こうした不便な状況が、陸橋完成まで44年間続きました。

 

陸橋ができると、工費3,000万円で軌道が敷かれ、昭和29年7月に「川原石線」が全線開通、陸橋の上を電車と車が並んで走る光景が見られるようになりました。

便利になった路面電車はその後線路を伸ばし、昭和10年には広長浜線が開通するなど、市民の足として多くのお客さんを運び続けました。

  (陸橋をくぐるJR呉線電車:現代)

 

私も高校生だった昭和30年代中頃に、川原石の始発駅から路面電車に乗って3年間通学しましたが、あの頃はどの便も満員に近い乗客で賑わっていました。また、車両も次々と新型車が導入されるなど、一番活気があった時代だったと思います。

  (昭和14年の呉市電)

 

ただ、その間も人口減少やモータリゼーションの影響で乗客は徐々に減少し、昭和42年12月に廃止。53年の歴史に幕を閉じました。

 (昭和42年12月 さよなら呉市電)

 

陸橋の上を路面電車が走ったのは、わずか13年間のみ。廃止と同時に陸橋上の軌道や敷石が撤去され、車だけの道となって現在に至っています。

現在、呉ポートピアパークに、1001号車が展示保存されており、華やかだった当時の記憶の断片を見ることができます(上)。