令和2年4月13日(月)

 

下の写真は阿賀沖に架かる「阿賀マリノ大橋」と大橋の上から観た延崎(塩谷)地区の様子です。近頃流行りの太陽光発電パネルがきれいに並べられています。

知る人は少ないでしょうが、かつてその場所には、石炭を燃料とした火力発電所がありました。今回はその発電所の話から始めます。

 

時は明治44年。地鎮祭のあと11月初旬から送電を開始しています。建設したのはこの発電所のために設立された中国電気K、K(資本金6万円)でした。発電能力は75KW。阿賀のほか警固屋、音戸、広長浜、仁方などに広く電力を供給する計画でした。

 

建設資金を提供したのは、雑賀藤吉と宮原幸三郎。雑賀は実業家兼代議士で、各地で電気会社の経営に参画し「電気王」と称されました。

(呉中央公園にある宮原幸三郎頌徳碑)

 

一方宮原幸三郎も実業家兼政治家。呉貯蓄銀行、中国電気、呉ガスなどを経営する傍ら、広島県議会議長、呉市議会議長などを務め、明治31年から衆議院議員を3期務めています。

 

大正元年末に需要戸数1,062戸、点燈1,677燈であったものが、大正3年末には供給範囲を広げ、需要戸数2,459戸、点燈3,475燈と大幅に増加し、毎期5~7%の配当を実施する極めて堅実な経営状況でした。

 

ところが、出資者の雑賀藤吉が大正4年7月に死去し、宮原幸三郎もその2か月後に辞任。その頃から中国電気の経営は急激に斜陽化してしまいます。

 

当時の世の中は経済活動が進んでいったこともあって、中国電気は程なくして芸備電気と合併。更に広島電燈に吸収合併されていきます。

 

大正時代に入ると、日本全体が大きな不況に見舞われ、発電に関しては、水力のほうが安く供給できるなどの理由もあって、大正7年に阿賀火力発電所は閉鎖、撤去されてしまいます。わずか7年間の短命発電所でした。

撤去された跡に設けられたのは「広島瓦斯阿賀骸炭(コークス)製造所」で、地元の人は単に「ガス会社」と呼んでいました。大正10年6月に主として呉、広の海軍工廠にガス供給を開始しています。

  (今に残るガス会社時代のレンガ遺構)

 

ガス工場が阿賀に立地を求めた理由は、石炭を運ぶ岸壁が整備されていたこと。海軍工廠に近いこと等の他、環境が良かったことが挙げられます。ガス工場は騒音や異臭が強く、住民から苦情を受けることが多かったようですが、当時の延崎(塩谷)は山林地帯の中に、細い里道が走る程度の地域でした。

その頃の阿賀工場は、広島ガスの主力工場でしたが、時代と共に、環境問題などが厳しくなり、昭和47年3月にはコークス炉を停止しました。

 

平成13年、呉地域が天然ガスに転換されたのに合わせて、都市ガスの供給に力を入れるため、阿賀工場は操業を停止しました。

今見られるような太陽光発電所は平成25年10月に広島ガスK,Kによって設置されました。約11万m2という広い敷地(上写真点線内)に、3億円の資金を投入して太陽光パネルを敷き詰め、733KWの発電規模を得ています。

 

これからは、太陽光や風力発電など再生可能エネルギーの時代となるのでしょう。