平成31年2月1日(金)
 
呉の郷原(下)には名字に“荒”のつく家が多く、「荒瀬」「荒光」
「荒川」などざっと見て118戸ほどあるそうです。
 
イメージ 1

歴史を辿ってみると、荒のつく家の祖先は大積地区の「荒谷」氏とされています。「荒谷」は広島県が全国で一番多くて331戸あり、あとは北海道や東北に多く見られます。
                 イメージ 2

広島県内で「荒谷」を見ると東広島が一番多く96戸。続いて呉市81戸、熊野町58戸などとなっています。
 
更に、呉市では、郷原地区が18戸、栃原地区15戸、苗代地区7戸などとなっています。
 
ここで郷原「荒谷」一族の変遷を簡単にたどってみましょう。
 
古文書に「郷原大積の荒谷氏の祖先は鈴木角四郎貞重(さだしげ)で、その後裔である新谷角四朗貞幸(さだゆき)が平安時代中頃に故郷奥州(東北)を出て安芸国賀茂郡三永に来住した」とあります。
 
貞幸の子の荒谷角四郎貞玄(さだはる)が1050年(永承4年)に三永から郷原の大積地区(灰が峰の麓)に来て屋敷を築いています。これが、郷原「荒谷」に始まりとなります。
 
イメージ 3

荒谷一族は、どういう生涯を送ったか?

殆ど、地区の開拓と農業で過ごしていますが、12世紀頃は平氏のために、瀬戸内海の沿岸整備を務めています。そのことから、荒谷氏は平家の落ち武者だろうという説を唱える人も居ます。
 
荒谷一族の荒谷角四郎時重(ときしげ)は、小早川氏に仕えており、小早川家断絶後浪人し、「大坂夏の陣(1615年」に豊臣方として参戦しています
 
結局、その戦いにも敗れて大積に逃げ帰り、昼間は岩の中に隠れ、夜間に田畑を耕すことを3年間続け、ようやく自宅に住むことが出来たとの書物が残っています。
 
明治以降では28代彦左衛門と29代一衛が郷原村の村会議員を務めています。
 
ナゼ、全員「荒谷」を名乗らず、「荒瀬」「荒川」等となったのか?
 
江戸時代末期に荒谷氏の分家が40戸ありましたが、百姓だった分家は
荒谷氏のみならず、名前を名乗ることができませんでした。
 
明治5年に戸籍で名字(苗字)が作られ、大積には荒谷本家が1戸で、分家は荒谷の一字「荒」を付けた家名が39戸できました。
 
ナゼ、現在大積に「荒谷」氏が居ないのか?
 
「荒谷」発祥の地は大積地区なのに、現在大積には「荒谷」氏はいません。(冒頭述べた通り、荒の字がつく分家は28戸あります)
 

30代「荒谷直文(なおふみ)」が医師となり、呉市西畑町に出家しました。直文は昭和44年に呉市医師会会長となり、4年間会長を務めています。
 
イメージ 4

以後、荒谷氏は大積には帰っておらず、大積の荒谷旧家は別荘に建て替えられて現在に至っています。
 
その他の地区の荒谷家と大積荒谷家との関係は?
郷原以外にも、栃原や苗代、更には安芸津などにも「荒谷」という家はあります。これはおそらく、郷原荒谷氏が出家したものと思われます。
 
安芸津の荒谷氏については「郷原村の山城の末葉である」と記した文書が残っています。

イメージ 5
 
NHK-TVに「日本人のお名前」というのがありますが、名前の源泉を辿ってみるのは面白いものですね。
で、あなたはご自分の名前の由来を知っていますか?
 
(資料提供:郷原郷土史研究会 阿井康憲氏)