平成30年11月14日(水)
 
前回に続いて、山口多聞に関する話です。大和ミュージアムには多聞の手紙
や書などが1m四方程度のスペースを割いて展示されています(下)。
 
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「闘将」と言われた多聞(下)も、ひとたび家庭に帰れば妻をこよなく
愛し、勤務先からもこまめに手紙を送るよき夫であり、子どもたちの行く末
を優しく見守る父親でした。
 
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多聞の最初の妻敏子は腎臓に持病があり4人の子どもを遺して急逝してしま
います。多聞は大きな衝撃を受け、傍目にもその悲嘆は目を覆うばかりで
あったといいます。
 
その当時、多聞は海軍大学校の教官を務める海軍大佐で、軍務多忙でしたから周囲の助力を得て毎日をかろうじて切り抜けていました。
 
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そんな多聞の窮状を見かねて再婚の労をとってくれたのが当時第一航空隊
令官だった山本五十六少将(上)でした。
 
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昭和9年、多聞は山本五十六の親友である四竈(しかま)孝輔海軍中将の姪
孝子(上左)と再婚します。孝子は東京女子大学英文科を首席で卒業した
才媛でした。時に多聞42歳、孝子28歳。
 
その時多聞が詠んだ歌があります。
「いとけなき 児等の多かる 我が家に 嫁がむ君ぞ けなげなりける」
 
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昭和17年4月のこと、多聞が東京牛込の自宅に帰ってきました。それは、
多聞がミッドウェイに出撃する直前で、二度と家族に会うことはないという
覚悟を決めて密かに最後の別れに帰ってきたのでした。
 
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家には妻孝子と長女、長男、次男、三男が居ました。9日間自宅で過ごしま
したが、ある時ちょっと思いついたという形で、家族全員を伴い写真館に
赴いて記念写真を撮りました。上の写真がそれです。
 
別れの朝、多聞は玄関先で見送る家族に向かって一度だけ敬礼したあと振り
返ることなく出かけていきました。

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多聞がミッドウェーに出撃する前日に、妻に認めた手紙。

貴女さえ居ればどんな事でも凌げます。貴女こそ本当に私の心中のオアシス
です。姿も心も美しい貴女は、私の天使です。どうか御体を御大切にして、
心に希望を持ち、どんな逆境に立っても、心中正しい行ないをして居る自信
があれば、人に恥じる事はありません。
 
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あのミッドウェイの空母「飛龍」上で迎えた最後の瞬間(上)にも、家族の皆の顔を思い浮かべながら艦橋に上がっていたのかも知れません。
 
平成10年に孝子が92才で亡くなった時、遺品の中から多聞が孝子宛に書
いた手紙が250通も出てきました。多聞は艦の中やホテルから実にこまめ
に手紙を書いていたのです。
 
その内容は若くして5人の子どもの母となった妻・孝子へのいたわりと感謝
の愛情あふれるものばかりでした。
 
それぞれの手紙の最後には、「貴女のことを忘れられない多聞より 私の好
きでたまらない孝子さんへ」「貴女の写真ばかり眺めている多聞より 懐か
しくて食べてしまいたい孝子様へ」など、闘将らしくない歯の浮くような言
葉が並んでいました。

妻・孝子は多聞の最後の言葉を後生大事にして、戦災で焼失した後に建てら
れたバラックのような粗末な家に戦後もずっと住み続け、周囲がいかに勧め
ても建替えに応ぜず、そこを終の住処として果てました。
 
お国のためと言いながら、多聞は実際はどんな気持ちで南洋に没していった
のか、ちょっと考えさせられる話です。