平成30年11月10日(土)
歴史にIF=もしが許されるとしたら。楽しい想像を思い描くことができる
でしょう。
自宅の縁側でくつろぐ山口多聞
ここで、私の好きな武将の一人、山口多聞中将(上)を取り上げ、「もし
山口多聞が、機動部隊を指揮していたら」と言うIFについて考えてみます。
史実では、山口多聞(以下多聞とします)は南雲忠一(上)機動部隊に
おける第二航空戦隊の指揮官であり、南雲の指揮下にありました。
多聞は海軍部内でも名の知れた航空戦のスペシャリストでした。その一方
南雲中将は、水雷畑の出身で、航空戦には不慣れでした。
航空に疎い南雲が上官で、プロの多聞がその指揮下に甘んじる。そういう
形になったのは、日本海軍の人事が年功序列を重んじた結果です。
真珠湾攻撃で我が軍は米軍艦船18隻、飛行機311機を撃破しましたが、空母は
討ち漏らし、基地施設と重油タンクはほとんど手つかずでした。
それでも南雲長官は、戦果に満足して更なる攻撃を行わず、早々に引き上げ
ています。
山本五十六の意図を知る多聞は再度の攻撃を具申しますが、艦隊の安全を
優先する南雲司令部はこれを聞き入れませんでした。
IFもし、多聞が機動部隊を指揮していたら、ハワイの軍事施設を徹底的に
叩くか、米空母艦隊を求めて決戦するかして、その後の戦局を大きく変えた
ことでしょう。
開戦から半年後。昭和17年6月。太平洋戦争の「関ケ原」といわれる
ミッドウェー海戦が起きます。
この戦いは真珠湾以降破竹の進撃を続ける日本海軍が、航空母艦4隻とその
艦載機多数を一挙に喪失するという初めての負け戦であり、太平洋戦争に
おける主導権を失うことになった一戦です。
米軍の機動部隊が接近している情報を得た多聞は、すぐに各艦の艦載機を
発進させるように南雲司令部に進言します。
この時、艦載機(上)はミッドウェーを空襲すべく陸用爆弾を抱いて装備し
ていました。
艦船に対する攻撃は当然、魚雷を用います。しかし、多聞は艦載機の爆弾を
魚雷に変える時間を惜しみ、先ず、陸用爆弾で敵空母の甲板を破壊して動き
を封じ、海戦の主導権を握るべきだと考えました。
それに対し南雲司令部は、護衛戦闘機の準備ができていないとして、艦載機
の発進を見合わせます。
その結果、赤城、加賀、蒼龍の3空母が米軍機動部隊の攻撃を受けてアッと
いう間に大火災を起こし、戦闘不能に陥ります。
IFもし、多聞が機動部隊の司令長官であり、速やかに艦載機を発進させて
いたなら、米軍に大打撃を与えていたでしょう。少なくとも、日本海軍の
空母が一方的に3隻も沈むという事態は避けられたに違いありません。
日本軍の残る空母は、多聞が座乗する「飛龍」1艦となりました。奇跡的
に、米軍の攻撃をかわした多聞はただちに反撃を決意します。
「我レ、今ヨリ航空戦ノ指揮ヲトル」と、各艦に信号を出し、「飛龍」の
稼動全機、零戦6、艦上爆撃機18を発艦させました。
圧倒的不利の戦況でなお攻撃を敢行したのは、多聞の強い闘志の表れで
した。
2度の攻撃で、米空母「ヨークタウン」(上)を大破させ(翌日、日本潜水
艦の攻撃により沈没)一矢報いました。
しかし、その「飛龍」と多聞に最期の時が訪れます。
米急降下爆撃の攻撃を受け、「飛龍」は次々と被弾、大火災を起こします。懸命の消火作業もむなしく、ついに、多聞は総員の退艦を命じます。
多聞は、司令官としてその責に任じるとして飛龍艦長、加来止夫大佐と
共に、艦橋にもどり、「飛龍」と共に静かにミッドウェーの海底深くに
沈んで行きました。享年50才でした。
もはやこれまでと察した部下が多聞に「何かお別れに戴くものはありません
か」と願い出ると、被っていた戦闘帽(上)を手渡しました。
その戦闘帽(艦内帽)は、江田島の海上自衛隊・教育参考館(上)に展示
されています。また、和歌一首「大君につくすまことの一と筋は孝の道にも
通うなるらん」も残されています。
大和ミュージアムには「飛龍」に掲げられていた多聞の少将旗(上)や、
参謀用飾緒が展示されています。
山口多聞の戦死報告書を奥さんが書き写したもの
(大和ミュージアム展示)
山口多聞の墓(東京青山霊園)