平成30年10月5日(金)
 
戦前の旧海軍華やかな時代、呉の街は芸術、文化、スポーツの面も盛んでし
た。今回は、短歌の世界で活躍した、渡辺直己(なおき)を紹介してみます。
 
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渡辺直己(上)は明治416月、呉市内郷町生まれ。県立呉一中(現:三津田高
校)から広島高等師範学校(現:広島大学)に進学。卒業後、呉市立高等女
学校(現:三津田高校)の国語教師となります。
 
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                      大和ミュージアム展示品

呉市立高等女学校(上)は大正9年創設。西中央3丁目(今年の春取り壊され
た呉市水道局の敷地内・下)にありました。
 
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直己は教師を勤める一方、歌人としてヒューマニズムあふれる短歌をつくり
「アララギ」などに掲載されました。「アララギ」(下)は、歌人伊藤佐千夫が
10年に創刊した短歌誌です。

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昭和12年、日中戦争勃発。直己は奉職中に応召され、歩兵第11連隊陸軍少尉
(下)として中国に渡ります。中国を転戦しながらも作品づくりは続けました。
 
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直己の作品は、日本人として、戦争していることの苦悩などを冷静に見つめ
た作品が多くなっています。そうした彼の作品は、歌壇に新たなページを開
いたとして高く評価され「戦う歌人」と称せられました。
 
ところが、昭和14821日、天津市にて32才の若さで戦死してしまいま
す。詳細は不明ですが洪水によるカーバイト爆発で爆死したとのことです。
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昭和141023日、遺骨が呉駅(上)着。呉アララギ会員の出迎えを受け、
呉市蔵本通西教寺(現・中央七丁目)において葬儀が執り行われました。
 
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墓は江原町の市営墓地(上)にあります。碑文は殉職時の部隊長である本間
雅晴中将の手によります。名刺受けの三面に、渡辺直己の短歌が彫られて
います。
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右面:戦ひの終りし戦線に秋立ちて輜重隊が行けり遙かなる道を
正面:涙ぐむ母に訣れの言述べて出でたつ朝よ青く晴れたる
左面:細々と かけたる月に対ひつつ戦はついに寂しきものか

 
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戦死した翌年の昭和15年に「渡辺直己歌集」(上)が友人たちの手によって
刊行されました。戦争への批判や反省が盛り込まれた1冊の歌集が、当時の
きびしい検閲をかいくぐって刊行された事実は意味深いとされています。
 
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現在「歴史の見える丘」に、高さ2m、黒御影石製の歌碑が建っています
(上)。この歌碑は直己が戦死して丁度50年目にあたる平成元年に企画され、
2年4月に完成しました。
 
表面に彼の作品「細々と かけたる月に むかいつつ (いくさ)はついに 寂し
きものか」が刻まれています。これは昭和13年の「アララギ」1月号に掲載
された作品です。
 
大和ミュージアムにも、直己に関する資料(歌集、アルバム、ハガキ、写真
など)が展示されています。

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                 大和ミュージアム展示品

歌集は「すずらん第15号」(呉市立高等女学校同窓会誌・上)です。これに
は直己が戦地より寄稿した短歌が掲載されています。これを受け取った直己
は「俺の短歌が載っている。うれしいものだ」と日記に書いたそうです。

 
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                大和ミュージアム展示品
 
また、アルバムは直己が戦地で作成して家族に贈ったものです。開かれた
ページ(上)には黄河河畔に佇む直己のスナップと彼の短歌「細々とかけた
る月に対かいつつ戦はついに寂しきものか」が自書されています。
 
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                 大和ミュージアム展示品

更に直己の作品「涙ぐむ 母に訣れ(わかれ) 言述べて 出で立つ朝よ 青く
晴れたる」も大きな文字で壁書きされています(上)。

戦後、渡部直己に匹敵するほどの歌人が、呉市に誕生していないように思いますが、どうなんでしょうか。