平成30年8月30日(木)
 
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昭和17513日、連合艦隊司令長官山本五十六(57才)の乗る戦艦
「大和」が呉に入港してきました。

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山本は上陸するとすぐに東京に電話します。相手は新橋の芸者河合千代子で
した。千代子はこの時肋膜炎を患っており、病状は重かったようですが、
看護婦が止めるのも聞かず死を賭して列車に乗りました。
 
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山本は一人呉駅(上)のホームで千代子の到着を待ちます。この頃既に、
山本の名前は広く呉市民にも知られていたので、背広姿に眼鏡をかけ、
マスクをして人目につかぬ風を装っていました。

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夜汽車から降りて来た千代子(上)は、かなり苦しそうでした。山本は千代
子を背負うようにして駅前の人力車に乗せ、そのまま旅館「華山」に入りま
した。
 
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「崋山」(上)は小春橋(堺川)のたもとにある、将校御用達の割烹旅館で
す。戦災で全焼したため、今はありません。
 
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            料亭「崋山」の位置が分かる当時の地図

二人は「崋山」で幾日か逢瀬を重ねました。そして、これが二人の最後の
出会いとなりました。
 
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      山本五十六、生前最後の写真(ラバウル基地)                           

昭和18418日、前線基地の将兵の労をねぎらうため、ラバウル基地を
飛び立った山本は待ち伏せしていたアメリカ軍機の襲撃を受けて撃墜され
戦死します。59才でした。
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               山本搭乗機を撃墜した米ロッキード
           P-38ライトニング戦闘機

千代子が山本から受け取った最期の手紙は昭和1842日付でした。ガダル
カナルを撤退しラバウルへ出発する直前に書かれたもので、遺髪が同封され
ていました。
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山本からの手紙は10年間に30センチ以上の高さになりましたが、国葬
65日)の前に海軍省から「全部焼却するように」との命令が下り、
更に「国葬当日(下)までに自決せよ」と迫られました。

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千代子はそうした試練を山本との愛を生きがいに耐え抜き、戦後は沼津で
料亭を経営していました。
 
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昭和294月、週刊朝日が「山本元帥の愛人~軍神も人間だった」で二人の
ロマンスを報じたため、「提督の恋」として、広く世間に知られるところと
なりました。
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河合千代子は新橋の芸者で「梅龍」といいました。二人は20才ほど年が離れ
ていましたが、山本は心底から千代子に恋していたようです。
 
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                                   戦前の芸者(イメージ) 
 
二人の出会いは昭和8年夏、築地の料亭でした。美貌と艶っぽさで人気の
あった彼女に、以来5日もあけず恋文を送るという入れ込みようでした。
 
山本は酒が飲めなかったみたいですが、気さくな性格の上、多芸だったので
モテたといいます。
 
千代子が花柳界に入ったのは30才近くになってからで、幸薄い女性でした
二人は似たもの同士で愛情が深まっていきました。
 
昭和12年に千代子は芸者から足を洗い、料亭の女将になりました。東京芝
神谷町に家を構え山本に負担をかけまいと、ここを逢瀬の場にしました。
 
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真珠湾攻撃の“Xデー”(128日)を前に、山本は呉から上京。多忙な
公務に追われながらも寸暇をさいて千代子と銀ブラを楽しみました。
 
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ダンディな山本は、会う時はいつもバラの花を持っていて、別れの際「この
花ビラの散る頃を見て下さい」とナゾの言葉を発しましたが、花ビラが散っ
た翌日、開戦の臨時ニュースを聞きました。
 
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連合艦隊は真珠湾の戦いのあと、約半年ぶり(昭和175月)に呉港に帰港し
ます。そして冒頭に紹介した、料亭「華山」での逢瀬に繋がります。
 
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          多磨墓苑(東京府中市)にある山本五十六の墓所 

千代子は平成元年8月、沼津の自宅(料亭「せせらぎ」)で肺炎により
死去。時に85才。安らかな最期だったそうです。

以上、軍神山本五十六元帥の、人間らしい純愛の話でした。