平成29年7月14日(金)
 
大和ミュージアムに旧海軍の歴史をたどる展示があり、そこに「友鶴事件、
第四艦隊事件」と書かれている(下)。

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館内でボランティアガイドをしていながら、私はこの2件がどんな事件なのか知らなかった。幸い、まだ質問を受けたことはないが、いつ聞かれても
ある程度のことはお答えできるよう、調べてみた。
 
一口で言うと、両事件とも旧日本海軍が起こした海難事故である。

ただ、この事件は日本海軍を震撼させ、その後の艦艇設計に大きな影響を
及ぼしている。
 
少し詳しく見てみよう。
 
先ず、「友鶴事件」(ともづるじけん)。

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                水雷艇「友鶴」進水記念絵葉書

友鶴は水雷艇の名前で、事件が発生したのは1934年(昭和9年)3月。
佐世保港外で行われた夜間演習中に起きた。
 
その日は朝から荒天で波が高かった。午前4時すぎ「友鶴」は高波を受けて
転覆。総員113名中死者行方不明者100名を出すという大参事となった(下)。
 
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原因究明の結果、艦船の艤装と復元性に問題点が指摘され、設計責任者だっ
た艦政本部の藤本喜久雄造船少将(下)は謹慎処分となり、彼は翌年47歳の
若さで脳溢血により憤死した。
 
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事件の背景として、1930年(昭和5年)に締結されたロンドン海軍軍縮条約
がある。この条約により日本は艦艇の建造に制限を受けることとなった。
 
そこで、限られた排水量の中でできるだけの武装を積み込む設計がなされ
た。武装はすべて水面上に積まれるため、重装備すれば当然上の方が重く
なり不安定になる。(これを「トップヘビー」と言った)
 
計算上は安全に航海できるようになっていたが、つい限界を超えてしまった
のが友鶴事件であった。
 
事件後、武装の削減、上部構造物の高さ制限、舷側へのバルジ装着といった
対策が実施された。友鶴も改修を受けて翌年再就役し、昭和20年に戦没するまで活動した。

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一方「第四艦隊事件」というのは、友鶴事件の翌年1935年(昭和10年)に
発生した(下)。 
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海軍大演習のため臨時に編成された第四艦隊が函館港を出港し岩手県沖での
演習に向かった。すでに台風の接近は報じられていたが、演習は強行され
た。主力部隊は波高20mに達する大波を受け、参加艦艇(41隻)の約半数
19隻)が何らかの損傷を受けた。
 
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特に最新鋭の駆逐艦「初雪」(上)と「夕霧」(下)は艦体が切断され、殉職者
54名を出した。
 
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原因は新鋭艦に採用された電気溶接部の強度不足が主たるものとされた。
 
これにより、以後の建造においては電気溶接の採用が見送られ、リベット
中心に戻ることになった。
 
この結果、日本海軍の造船技術は他の海軍先進国より遅れをとる事態と
なった。
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                                     アーク溶接法

但し、溶接研究はその後も続けられ、やがてブロック工法と共に全面採用
され、戦後の造船王国への下地を作った。
 
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どんな技術でも開発段階では多くの難題に直面し犠牲者も出す。そうした
苦難に耐え、根気よく研究を続けて行けば、技術完成まで持ち込むことが
できるか否か、それは熱意と幸運が左右することになるのであろう。