平成29年3月16日(木)
 
政府が南スーダンへ派遣していた陸上自衛隊員の撤退を決定した。
今の南スーダンは相当危険な状態にあると判断したのだろう。
 
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協力は必要だが、死人は絶対に出せない。海外派兵の難しいところだ。
 
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自衛隊が初めて海外に派遣されたのは、前々回この欄で取り上げた平成
3年の「湾岸の夜明け作戦」(ペルシャ湾派遣)だった。
 
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この時の派遣を無事故で終えたのでそれ以降の海外派遣に道を開くことが
でき、更に、国際社会の中で日本の地位を高めた、と言われている。
 
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ここで、この時の派遣部隊の指揮官落合畯(たおさ)一等海佐(上)に
スポットを当ててみよう。
 
私が落合海佐を取り上げるのには、次の3点ほどの理由がある。
 
 ① 落合海佐が、沖縄戦で有名な大田實海軍中将の子息であること。
 ② 畯(たおさ)という名前が強く印象に残ったこと。
 ③ 落合海佐の実兄が、広町の私と同じ地域に住んでいたこと。 
 
 
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① 大田實(みのる)中将(上)については、沖縄戦で果敢に戦った後に「沖縄県民斯ク戦エリ・・・・・」の電報を東京に打電して一週間後にピストル自決した指揮官としてよく知られている。
 
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                  大田中将が自殺した沖縄の地下壕
 
沖縄県民は基本的に軍人嫌いだそうだが、大田中将だけは今でも多くの県民に慕われているという。落合指揮官はそのご子息(三男)である。
 
(たおさ)という字には「田の長(おさ)=農夫」という意味がある。
大田中将の願いは、「長男(英雄)、次男(浩)は軍人となって国に奉公
する。三男(畯)は農夫となって家を守る」というものだった。 
 
③ 中将の長男(大田英雄)は、呉に住み宮原高校などで社会科の教師をされた。平和運動家で、戦後弟の畯とは違う道を歩いた。広町内で良く姿
お見かけしていたが、平成18年に71才で亡くなられた。
 
落合海佐は昭和14年7月、大田中将の9番目の子どもとして横須賀海軍病院で生まれた。翌年1月に一家は呉の川原石に引っ越した。
 
中将が自殺した時、かつ夫人の手元には9人の子が残された。
畯少年は5才だった。
 
かつ夫人は着物、宝石類などを食物と物々交換したり、行商などして必死の生活を続けた。娘たちも行商を手伝った。
 
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見かねたかつ夫人の兄、落合英二(上)が三男の畯(たおさ)を引き取ること
なった。昭和22年、畯7才の時である。
 
落合英二は当時東京帝国大学の教授で、のちに文化勲章を受章するほどの
人格者であった。子どもはいなかった。
 
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昭和34年、畯(たおさ)は防衛大学校(横須賀)に進学、昭和38年卒業と
同時に、父と同じく海上自衛隊幹部候補生学校(江田島・上)に進んだ。
その間、母かつは呉市池の浦市営住宅に住んでいた。
 
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昭和41年に掃海艇5号の艇長に着任。弱冠27才だった。そして平成
3年「湾岸の夜明け作戦」の指揮官となり、部下500人余を率いてペルシャ湾掃海の任務に就いた。 
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自衛隊初の海外派遣に対して世論はかなり厳しかった。ハト派を自認する
海部俊樹総理(上)は派遣決定を渋り、部隊の見送りにも出なかった。
 
現地での掃海作業は6月5日に開始、落合海佐は父親と同じく「指揮官先頭・人命最優先」の精神を常に念頭に於いて指揮をとった。
 
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その甲斐あってか、3か月余の間に計34個の機雷を処分したが、その間
1件の事故もなく、大きな故障もなかった。
 
落合海佐は翌平成4年海将補に昇進。総監部幕僚長や第一術科学校長として呉、江田島で勤務したのち平成8年3月退官した。
 
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そして平成22年11月、秋の叙勲において瑞宝小授章(上)を受けた。
現在77才。鎌倉に住んでいる。
 
今頃はゆうゆう自適の毎日を過ごしながら、ありし日のペルシャ湾に想いを馳せているかも知れない。