平成28年6月27日(月)
 
大和ミュージアムの一画にオイルタンカー「日精丸」の1/100模型が
展示されている(下)。
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昭和50年6月の「日精丸」竣工を記念して作られたものだけに
精巧な仕上がりとなっており、長さも3.8mと大きい。
 
「日精丸」は呉海軍工廠の技術力を受け継いで建造された、タンカーの
集大成ともいえるもので、戦後日本が復興していくなかで原動力となった
ものの一つとして紹介されている。
 
ここで、戦後の呉の造船業について考えてみよう。
 
アメリカは、終戦後の占領政策を進めるうえで、また島国日本の再生を図る
うえで、船が重要な役割を果たすことを理解していて、終戦末期の度重なる
爆撃に於いても造船部はほとんど攻撃しなかった。
 
日本の船舶保有量は戦争により95%が失われたと言われ、何を始めるにも
先ず船の建造が必要であったから造船所を残したのは賢明な策だった。
 
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        旧呉海軍工廠造船部(昭和30年頃)

昭和25年に「旧軍港市転換法」が成立して、旧海軍施設の使用権が呉市に
移譲されたのを受けて、いち早くアメリカの船会社NBCが呉市に進出して
きた。
 
真藤恒(下)をリーダーとする旧海軍工廠出身の技術者がNBCに移って
中心的な役割を果たし、効率的にタンカーの建造を推し進めた。
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溶接技術を高め、ブロック建造法を全面的に採用するなど合理的手法を取り
入れて日本の造船工業界を牽引し、同時に日本を高度経済成長時代に導いて
いった。
 
呉で戦後最初に建造された船は昭和27年12月竣工のタンカー
「ペトロ・クレ」(下)であった。
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3万8000重量トンで当時世界最大を記録したこのタンカーは、
戦艦大和と同じドックでブロック工法により建造された。
 
昭和30年以降になると日本は、「神武景気」から「岩戸景気」「いざなぎ
景気」と進み、年10%以上の経済成長を記録、池田勇人首相の「所得倍増
論」が現実のものとなって経済大国と言われるまでになった。
 
経済が活発化すると石油消費量は比例して増えていき、中東地区から原油
輸送にあたるタンカーは年々大型化していった。
一度にたくさん運ぶと安く運べるという理論である。
 
昭和33年末に竣工した「ユニバース・アポロ号」で10万トンタンカー
時代を迎えた。
 
更に昭和41年竣工の「出光丸」(横浜工場)で20万トン時代に入った。

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 昭和46年竣工の「日石丸」(上)で37万トン、昭和50年竣工の
「日精丸」(下)で48万トンまで大型化が進んだ。

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「日精丸」は現在でも日本船籍史上最大のタンカーとなっている。
勿論、建造したのは戦艦大和の実績を持つ呉の造船所である。
 
「日精丸」は全長約380m、戦艦大和より110m以上も長く
まさに巨大タンカーであった。
 
これ程までに大きくなると原油満載時には吃水が28mと深くなってマラッ
カ海峡が通れない。そこで帰りは遠回りしてロンボク海峡を通ったという。
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平成12年に引退するまで、中東から鹿児島(喜入基地)までの行程を
128往復し、航走距離180万キロ、総輸送量8億4000万klを
記録した。
 
今も大和ミュージアムから望む呉港には、完成したばかりの巨大貨物船
(コンテナ船)が浮かび(下)、呉が明治時代の海軍進出以来続く造船の町として今も活動していることが判る。
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また、「歴史の見える丘」に立つと、眼下に巨大貨物船の建造風景が見え
る。動きまわる大きなクレーン、火花を散らす溶接機、甲高く響くハンマー
の音。活気にあふれた建造風景(下)だ。
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大和が始めた「ブロック工法」が今もしっかり継承されていることが良く
判る。

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                呉の造船所全景(現代)

「日精丸」模型や巨大タンカーの写真を見ていると、戦艦から引継がれた
呉海軍工廠の技術力の高さに思いが及ぶ。
 
    *写真は総て「大和ミュージアム」の展示品です。