平成28年4月3日(日)
大和ミュージアムのH27年度来館者が先日(3月30日)100万人を
突破したという。
一時80万人台まで減少していたが、ここ数年増加傾向に転じ、
8年ぶりの100万人突破となった。
ボランティアの末席に居るものとしても嬉しいかぎりである。
そこで、これを祝して・・・・・という訳ではないが、展示品の一つであり、
戦後の闇市などで活躍した「マツダ三輪トラック」を紹介してみよう。
映画、ドラマで終戦直後の闇市などの場面になると必ずといっていいほど
登場するのが、この三輪トラックである。
安価で扱い易いマツダ三輪トラックは当時物資の輸送に愛用された。
「マツダ」という名称は「トヨタ」「ニッサン」などと並ぶ自動車会社
「マツダK.K」のマツダであり、創業家の松田一族からきている。
「マツダK.K」の創業は大正9年で当時の社名は「東洋コルク工業K.K」
といい、びんの栓などに用いるコルクなどを扱う小さな工場だった。
昭和2年に現在地の府中町(当時府中村)に移転し「東洋工業K.K」と
社名を変えた。
東洋工業という社名は、今は「広島東洋カープ」という球団名に
残されている。
マツダはカープ球団の1/3以上を保有する筆頭株主である。
また、サッカーの「サンフレッチェ広島」は前身が東洋工業サッカー部
である。
昭和4年に松田重次郎氏が二代目社長に就任した際、東洋工業は日本製鋼所
の下請けとなり軍需関連品の生産を手掛けるようになった。
一方で昭和6年から三輪トラックの生産を開始し、創業家の名前をとって
「マツダ号」と命名した。
そして開発を進め昭和13年から新型の「マツダ号GA型」の生産を
開始した。
終戦直後の闇市などで活躍した三輪トラックはこのGA型である。
昭和20年8月6日、広島市に原爆投下。幸い東洋工業は被災を免れた。
戦後、東洋工業は呉海軍工廠の技術者を多く雇用して研究開発に拍車をかけ
、昭和24年には新型の三輪トラック「マツダ号GB型」を生産開始した。
新開発した空冷エンジンとトランスミッションをアルミニウム合金で一体
鋳造するなど他社に先駆けて新しい試みを行った。
そうした努力のお蔭で、東洋工業はおりからのドッジ不況(財政金融
引き締め政策)のもとでも経営は安定した。
東洋工業K.Kは昭和59年に「マツダK.K」となった。
今、マツダK.Kは国内自動車産業の一翼を担って躍進を続けている。
大和ミュージアムに展示している三輪トラックは「マツダ号GB型」である。
一度来館されて戦後日本の復興ぶりに思いを馳せて戴きたい。