戦艦大和と関係の深い「樫野」という船のこと、知っていますか?
大和型戦艦に搭載する「46センチ主砲塔」は、全て呉で製造しました。
というのも、東洋一といわれた呉工廠にしか製造設備がなかったのです。
何しろ、砲塔直径約18m、高さも20m位はあるでしょう。
砲身だけで長さ21m、重さ165トンあります。
全重量は弾丸を含まなくても2760トン、
駆逐艦1隻分はあります。
それ程大きく重い製品を、呉で作ったあと2番艦用は長崎まで、
3番艦用は横須賀まで運ばねばなりません。
ところが、これだけの大物製品を輸送できる艦船を、
当時の日本海軍は所有していなかったのです。
民間には、探せばあったかも知れませんが、
何しろ46センチ砲については絶対に外部に知られてはいけません。
機密保持のうえで民間の船舶を使うわけにはいかなかったのです。
そこで、海軍は主砲運搬のためだけに、新たに艦船を作ることにしました。
それが給兵艦「樫野」です。
昭和15年7月10日長崎造船所で竣工、
翌16年呉から長崎まで「武蔵」の主砲等塔を運搬しました。
完成した「樫野」は、基準排水量 10、360t
速力 14ノット
兵装 12センチ単装高角砲 2基
13ミリ連装機銃 2門
3ヶ所設けられたハッチのうち、最大のものは長さ15.7m、
幅14.8mあり、砲身専用の長尺ハッチも装備されていました。
タービンはスイスのブラウン・ボヴェリー社製、
ボイラーは何と、アメリカのラモント社製でした。
(まだ輸入できたんですネ)
このボイラーは、日本海軍では使用していない高温高圧缶でしたが、
運用実績等を考慮してか、使い慣れているホ号艦本式缶も搭載していました。
乗員260名を収容できる設備も整っていたそうです。
「樫野」が本来の役目を果たしたのは、
唯一「武蔵」の主砲塔を運搬した時だけでした。
太平洋戦争勃発後は、
5、800tの搭載能力を活かして輸送任務に使用されていましたが、
昭和17年9月4日、
沖縄方面で米潜水艦グラウラー号の雷撃を受けて沈没しました。
現在、樫野の全体像を写した写真は存在せず、
わずかに艦橋を写した1枚のみ遺されているそうです。
大和型戦艦に搭載する「46センチ主砲塔」は、全て呉で製造しました。
というのも、東洋一といわれた呉工廠にしか製造設備がなかったのです。
何しろ、砲塔直径約18m、高さも20m位はあるでしょう。
砲身だけで長さ21m、重さ165トンあります。
全重量は弾丸を含まなくても2760トン、
駆逐艦1隻分はあります。
それ程大きく重い製品を、呉で作ったあと2番艦用は長崎まで、
3番艦用は横須賀まで運ばねばなりません。
ところが、これだけの大物製品を輸送できる艦船を、
当時の日本海軍は所有していなかったのです。
民間には、探せばあったかも知れませんが、
何しろ46センチ砲については絶対に外部に知られてはいけません。
機密保持のうえで民間の船舶を使うわけにはいかなかったのです。
そこで、海軍は主砲運搬のためだけに、新たに艦船を作ることにしました。
それが給兵艦「樫野」です。
昭和15年7月10日長崎造船所で竣工、
翌16年呉から長崎まで「武蔵」の主砲等塔を運搬しました。
完成した「樫野」は、基準排水量 10、360t
速力 14ノット
兵装 12センチ単装高角砲 2基
13ミリ連装機銃 2門
3ヶ所設けられたハッチのうち、最大のものは長さ15.7m、
幅14.8mあり、砲身専用の長尺ハッチも装備されていました。
タービンはスイスのブラウン・ボヴェリー社製、
ボイラーは何と、アメリカのラモント社製でした。
(まだ輸入できたんですネ)
このボイラーは、日本海軍では使用していない高温高圧缶でしたが、
運用実績等を考慮してか、使い慣れているホ号艦本式缶も搭載していました。
乗員260名を収容できる設備も整っていたそうです。
「樫野」が本来の役目を果たしたのは、
唯一「武蔵」の主砲塔を運搬した時だけでした。
太平洋戦争勃発後は、
5、800tの搭載能力を活かして輸送任務に使用されていましたが、
昭和17年9月4日、
沖縄方面で米潜水艦グラウラー号の雷撃を受けて沈没しました。
現在、樫野の全体像を写した写真は存在せず、
わずかに艦橋を写した1枚のみ遺されているそうです。