忘れ得ぬ歌ぱーと871「さよならの総括」 | 遊遊のブログ

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さよならの総括

作詞:山上路夫
作曲:田辺信一


さよならは別れの言葉ではない
それは出発の言葉です
「さよならの総括」


今日も昨日と 同じように
生きてゆくなら わけもない
分かって下さい さよならは
私の門出の 言葉です


何も聞かずに 見もせずに
生きてゆけたら 幸せよ
わかって下さい さよならを
涙をこらえて 言うのです


こんな娘にするために
苦労したのじゃないという
分かって下さい お母さん
人形みたいに 生きられぬ


人は サヨナラするたびに
いつも出かけてゆくのです
分かって下さい さよならの
向こうで何かが 待っている


➡️「フランシーヌの場合」に続く、新谷のり子さんのセカンドシングルで、1969年10月にリリースされました。
B面曲は「雨降る20世紀」です。

新谷 のり子 (本名: 新谷則子)さんは、学生運動の闘士でもあり、三里塚闘争にも参加しています。
北海道北斗市(旧上磯町)出身。カトリック信徒。

この題名は(1960年の樺美智子さんの死をきっかけに)安保闘争(いわゆる60年安保)に参加し、闘争半ばの1965(昭和40)年に、闘争と恋との二重の挫折で、21才で自殺した奥浩平の遺稿集「青春の墓標」の中の「さよならと総括(12月8日付けの「中原素子への手紙」)」から取ったようです。

「青春の墓標」は、高校卒業時からの恋人[(中原素子さん)は、早稲田大学入学後に革マル派に加盟し、党派を異にしてからも交際は続いたが、党派間抗争が激化するとともに事実上の別離に至り、奥の自殺の要因の一つとして、この中原さんとの関係をめぐる苦悩が挙げられることからか、副題が「ある学生活動家の愛と死」とつけられています(中原さんへの手紙は、彼女の両親が厳しい事から、女性名で送付)

私の手元にあるのは、昭和47年10月25日、文藝春秋より出された37刷(初版は昭和40年10月30日)で、元全学連中央執行委員長の北大路敏氏が「学生運動の潮流と課題」として解説されています。

さようならと総括
私はあなたに詫びるつもりは毛頭ありません。
詫びてそのまま立ち去るという例はごく稀なことです。あなたは特に詫びられることが嫌いです(以下略)


私は「総括」という言葉が大嫌いです。
「総括」とは、本来は全体を取り纏める事ですが、1960年〜1970年代の左翼政治運動家の間では、活動を振り返ることで反省・改善策を見出す思考法として好んで用いられ「総括」の名の元に私刑を受け、29名の同士を殺していった「連合赤軍」を思い出すからです。

(左翼団体において)取り組んでいた闘争が一段落したときに、これまでの活動を締めくくるために行う活動報告のことを「総括」と言い、闘争の成果や反省点について明らかにし、これからの活動につなげていく、工業界でいうところのPDCAサイクルの「C(点検・評価)」に相当するもので、左翼団体(連合赤軍)においてもこの点では他派と同一ですが「総括」により「革命戦士の共産主義化」を目指した点、日常の瑣末(と思われる)な言動に対しても「総括」を要求された点「総括に集中するため」として、正座・絶食の強要、暴行、ロープによる束縛などをした点、まさに鬼畜の所業です。


新谷のり子さんの歌の題名にある「総括」は、時代背景から生まれた(と思いたい)のですが、同じ時代背景から嫌われたとと言えそうです。

「フランシーヌの場合」が大ヒットしたのに、その4ヶ月後に発売されたこの2曲目は、ほぼ売れなかったのも、タイトルに起因しているのは間違いないようです。

つまり彼等が目指していた「共産主義革命」は、日本人に見向きもされなかった証しと言えるでしょう。

その生き残りが、未だに「革命」を夢見ているのは、滑稽と言うのか、哀れと言うのか…

余談ですが、奥浩平さんに影響を受けた一人に、高野悦子さんがいます。
「青春の墓標」と「二十歳の原点」は、おそらく真似をしたのか?と疑いたくなる程、構成が同じです。

新谷さんは、一時期南千住駅前の食堂で働いておりましたが、その後どうなったのでしょうか?