忘れ得ぬ歌ぱーと49「コスモス街道」 | 遊遊のブログ

遊遊のブログ

思い出の曲を、思い出と共に、気ままにアップしたブログです。

コスモス街道
作詞:竜真知子
作曲:都倉俊一
バスを降りれば からまつ林
日除けのおりた 白いレストラン
秋の避暑地で 出会うひとはみな
なぜか 目を 目を伏せて
なぜか 目を 伏せ歩きます
コスモスの花は 今でも咲いていますか
あの日の二人をまだあなたは覚えてますか
愛されなくても 最後まで
のぞみを捨てずに いたかった
右は越後へ行く 北の道左は木曽まで行く 中仙道
続いてる コスモスの道が

あなたに賭けた ひとつの季節
優しい日々は 帰らないけれど
愛の想い出 そっととり出して
この胸に 暖めて
暖めなおす 私です
コスモスの花は 今でも咲いていますか
心の支えを 今ひとりでたずねてきたの
愛されなくても 最後まで
のぞみを捨てずに いたかった右は越後へ行く 北の道
左は木曽まで行く 中仙道
続いてる コスモスの道が


soon1977年(昭和52年)8月25日に発表された「あずさ2号」に続く、狩人のヒット曲です。

この曲の舞台は、北佐久郡軽井沢町追分。

追分とは、分かれ道を意味します。
歌詞にあるように、中仙道と北国街道の分かれ道でした。

分去れの三角地の頂点に小さな道祖神。その奥に延宝七年(1679)の道しるべ。中山道、北国街道を指し示し、まだ初期に使われた海道の文字が刻まれています。元は地蔵尊の台座であった四角のくり抜き石が、その次にある道しるべ。
「さらしなは右 みよし野ハ左にて 月と花とを追分の宿」
更科は月の名所、吉野は12年ほどの間皇居があったことから人々は御吉野と呼びます。

当時の追分は(駅名は信濃追分)上野からの特急は全て通過していましたが、急行信州号は、1日5往復ほど停車していましたが、軽井沢と小諸に挟まれた、静かな駅でした。
まだ北陸新幹線どころか、上信越自動車道すらなかった時代、Nちゃんと訪れました。
Nちゃんは社会人。私は大学2年。

それがNちゃんとの最後の旅行となったのですが、落葉松林、コスモス、浅間山…
今でも色鮮やかに目に浮かびます。

その後私も結婚(出来ちゃった婚)しましたが、新婚旅行先は、秋の信濃路でした。